« 力強い人間像を独特のリズムで描き出した、真船 豊(福島県) | トップページ | 岩手社会運動の草分け、石川金次郎(岩手県) »

2019年2月 2日 (土)

紅花商人が活躍した村田町の今昔 (宮城県)

Photo


 日々、いろいろなニュースが新聞やテレビで報道されている。それも良いニュースより暗いニュースが多いこともあり心が寒くなる。そんなとき、図書館にいくとホッとする。
 とくに旅や県史などが並ぶコーナーで本や写真集を開くと、知らない町を知りたくなり、行ったことがある観光地もまた行きたくなったりする。

 先日も『東北・小さな町小さな旅』の頁を繰っていたら、村田町の数百メートルの道両側に立ち並ぶという店蔵の写真がでてきた。紅花で財をなした商人たちの蔵が往時の繁栄を伝えている。
 紅花で布を染めると、とてもきれいなピンク色になるが、科学の発達した今はどうなんだろう。紅花にも村田町にとっても大きな変遷がありそうだ。
ちなみに、『日本地名事典』によると村田町は宮城県柴田郡、仙台市南西、白石川(しろいしがわ)支流の松尾川(別名荒川)中流域を占める町。東北本線大河原駅からバスとある。

       村田城趾

 嘉吉年間(1441~44)、小山九郎業朝によって村田城が築かれ、「村田殿」と称されたのが町名の由来。
 1613慶長18年、政宗の七男・宗高が城主となる。
 1623元和9年、刈田岳噴火の際、城主・宗高は自らが領民に代わって苦難を受けることを祈祷するなど領民に慕われたが、若くして死去した。
 それから60年余の1684貞享元年、一迫(いちはざま・栗原市)より芝多氏が入封。
 1865慶応元年まで八代182年にわたり支配した。

 なお、村田町は、愛宕山・千塚山・方領権現・夕向原1号・古峰神社・薬師堂の6基の前方後円墳をはじめ、円墳・横穴など宮城県内でも古墳の分布が多い。
 地域の歴史は古く、城趾の北にある白鳥神社は日本武尊(やまとたけるのみこと)を祭神として勧請し、日本武尊が白鳥に化した伝説にちなむ白鳥信仰が、社号の由来という。

       紅 花

 紅花は染料・薬用・食紅などの原料。
 山形県の名産として知られているが、江戸時代の宝暦年間(1751~1764)、仙台より南(仙南地区)でも本格的に栽培され、仙台と山形の街道の分岐点にあった村田に集められた。
 紅花は村田商人により、運賃・荷崩れの問題から、笹谷峠を越えて山形から大石田(山形県北村山郡)まで陸路で運ばれ、そこから最上川をくだって酒田湊に至り、坂田から敦賀(福井県)を経るルートで京・大阪に運ばれた。また、奥州街道から江戸まで馬で運んだ。
 毎年、400駄(1駄=120kg)ほどの紅花が出荷されたという。
 海路での運搬は、難破などによる損害も生じることも多く、商人たちは家族と水杯を交わしたという。
 村田の商人は京都・大阪に紅花を出荷すると、今度は呉服類・古着・綿を会、酒田湊経由で蝦夷地から海産物を買い付けて取引をしたり活発な商業活動を行い、財をなした。

      笹谷街道

 奥羽山脈の笹谷峠(標高906m)を越えて、陸奧と出羽を結ぶ街道を笹谷街道とよび、3つルートがあった。
 1つ目は、奥州道中宮-猿鼻(円田)-四方峠-川崎-笹谷-関沢-山形を結ぶもので、平安末期には開通していた。
 2つ目は、仙台築城後に開かれた、長町-茂庭-碁石-小野-川崎-笹谷を結ぶもので、国道286号線とほぼ一致する。このルートは、仙台-山形間の最短路であったことから、物資運搬路として利用された。
 3つ目は、奥州道中船迫(ふなばさみ)-沼辺-小泉-村田-支倉-小野-川崎-笹谷を結ぶ。江戸時代、紅花街道ともよばれ、出羽の生活文化がもたらされた。

 村田の商家の間取りは山形地方と同じであり、白鳥神社には、山形県北村山郡大石田町の漆喰鏝(こて)絵の影響を思わせる絵がある。しかし、この文化伝播ルートは、のちのち東北本線が開通すると流れの方向が逆転する。

 1866慶応2年、片平氏が芝多氏と交代したが、まもなく明治維新となる。
    慶応2年の「居屋敷並びに家中屋敷絵図面」ほか、紅花商人がみやげとして持ち帰った*司馬江漢「弄笛図」(ろうてきず)などの美術工芸品などは村田町歴史みらい館に収蔵されている。
    *司馬江漢: 江戸後期の洋風画家・蘭学者

 1868明治維新。城の建物は総て失われ、村田町役場、第一小学校などが建てられた。
 のち、城山公園整備事業により村田城趾全体の整備が進められた。

 1870明治3年、願勝寺、再建にさいし村田城大手門を移築して山門とする。この門は現存する唯一の村田城の遺構で芝多氏によって築造された四脚門である。

 1895明治28年10月、町制により村田町に。
     明治時代以降、化学染料の普及などによって紅花栽培が衰退し、また前述のように東北本線の開通によって、村田は主な交通路からはずれ次第に沈滞する。しかし、市街地の中央部には、明治初期以降に建てられた土蔵造の家や短冊形の町割が残り、江戸時代の繁栄した面影を今も残している。
 代表的な紅花商人の一人であった大沼正七の屋敷が、当時の所蔵品と共に町に寄贈され、「村田やましょう記念館」として公開されている。

 1955昭和30年4月、沼辺村・富岡村の一部と合併。
 1960昭和35年、川崎町の一部が合併し、現在の町域になる。
 笹谷街道(国道286号)とほぼ並行して山形自動車道が走っている。東北自動車道と山形自動車道が連結する村田ジャンクションがあり、東部には鈴鹿サーキットと並ぶ国際レーシングコースを有する、スポーツランドSUGOが有名。
 1944平成6年、公園内に「村田町歴史みらい館」を開設。

    参考: 懐かしい日本の町をたずねて『東北 小さな町小さな旅』山と渓谷社2003入江織美(宮城県)、写真も / 『宮城県の歴史散歩』2007山川出版社 / 『市町村名語源辞典』溝手理太郎1992東京堂出版 

|

« 力強い人間像を独特のリズムで描き出した、真船 豊(福島県) | トップページ | 岩手社会運動の草分け、石川金次郎(岩手県) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 紅花商人が活躍した村田町の今昔 (宮城県):

« 力強い人間像を独特のリズムで描き出した、真船 豊(福島県) | トップページ | 岩手社会運動の草分け、石川金次郎(岩手県) »