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2019年2月 9日 (土)

岩手社会運動の草分け、石川金次郎(岩手県)

 平成最後の年が明けたと思ったらもう2月、選挙が近いので駅や街頭に立つ政治家を見かける。正直、国会のテレビ中継や新聞、テレビの政治ニュースをみるたびこの先どうなるんだろうと心配。真面目に働いても生きづらい世の中になったら若者から元気を奪ってしまう。そうなったら困る。せめて、今よりひどくならないためにも、みんな選挙に行きましょう。
 そんなことを考えながら『岩手の先人100人』(遠山崇)を開くと
「衆議院議員になっても弁護士家業は忘れず、ツマゴをはいた貧農はじめ、だれにも直接面談し真心こめて弁護した」という一節に出会った。明治生まれの弁護士・政治家、石川金次郎の話である。
 石川は罪を犯した貧農のために石川啄木の「働けど働けど・・・・・・」や宮沢賢治の詩を引用し涙しなが減刑を求め、裁判官がその真情にうたれ執行猶予にしたこともあったという。
   ツマゴ: 雪道を歩くのにはくワラジ、わらぐつ。

         石川 金次郎

Photo
 1898明治31年1月14日、岩手県岩手郡玉山村(盛岡市大字日戸)の農業・石川徳次郎、ヨシの長男として生まれる。
    ちなみに玉山村の駅は東北本線・渋民駅。石川金次郎死去の翌年、玉山・藪川・渋民3村が合併。
 渋民はごぞんじ石川啄木成長の地、
「やはらかに柳青める北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに」の歌碑がある。
   ?年、 玉山村日戸小学校
   ?年、 義務年限延長で盛岡市仁王小学校に移り、一家で盛岡市油町に転居。

 1911明治44年、県立工業学校(盛岡工校)機械科に入学。
 1914大正3年3月、卒業。
    横須賀の海軍工廠(艦船・兵器の製造・修理工場)に就職したが、関節炎のため8ヶ月で退職。右足が不自由となり母校の製図教師をするかたわら油町の総代として町内会の世話役を引き受けた。
    同年8月23日、日本はドイツに宣戦布告、第一次世界大戦に参加する。
 やがて第一次大戦の景気も不況になりデモクラシー運動が台頭しはじめる。

 1917大正6年3月、ロシア革命。ソビエト政権を樹立。
 1918大正7年、故郷に戻った金次郎は仁王青年団を中心に「黎明会」を組織。
 1919大正8年、社会思想研究団体「牧民会」を結成。
    大杉栄や堺利彦の著作に触れ、近代社会思想に目覚め、読書会的な性格の強かった「黎明会」を発展させ、本格的な社会主義思想を研究。メンバーは実弟の石川準十郎や吉田徳治(孤羊)、横田忠夫ら。

     ――― 牧民とは本来「人民を治める」の意だが、その人民は弱者ぞろい。そこで、「われらの生活を人間的ならしめるため資本主義の覆滅を期し、社会正義と個人の自由を否定するいっさいの制度を否定する」をスローガンに、堺利彦から赤地にスミで“牧民会”と書いてもらい赤旗とし、社会主義研究や講演会をひらき啓発活動につとめた(『岩手の先人100人』)
    週1回ずつ杜陵館やメソジスト教会を借り講演会を開いた。常連も50を数え、次第に社会主義団体に移行。
 1920大正9年、「日本社会主義同盟」。山川均ら社会主義者を中心に、労働団体・学生団体・思想団体を結集した組織。石川らはこれに加わり盛岡支部を結成。

 1921大正10年、結社禁止処分となる。
    支配層から危険思想とみなされ、石川は大会出席で上京した際、自分が尾行され要視察人なのを知る。そして、大杉宅で幹部連と参集しているところを検束される。
 1922大正11年、盛岡無尽(北日本相互銀行)に勤める。
 1923大正12年9月1日、関東大震災。
    大杉一家甘粕憲兵大尉らに暗殺される事件の後、石川に脅迫文が届いた。石川はマルクス主義に組することができず、社会民主主義を信条とする。
 1926大正15年、社会民主党に参加。

 1928昭和3年、盛岡無尽をやめて独学で法律を勉強。高等試験予備試験に合格。
 1932昭和7年、司法試験に合格。
 1933昭和8年1月、弁護士開業。
         6月盛岡銀行清算人に選任され、昭和16年まで。

 1929昭和4年、盛岡市議会議員選挙に「貧乏と欺瞞と結核をなくしたい」といいって当選。以来、終戦まで連続4期勤める。

 1931昭和6年、この年、銀行パニックがあいついだ。
    石川は政府の銀行合同要項に反対、旧盛岡銀行お復活に努力したが、営業免許を取り消されて不成功に終わった。そして清算人に推される。すると「開業早々の無産党弁護士に銀行清算などできない」と反対する者もあったが、裁判所長らが石川を支持、和議法にもとづき7年余でその清算を結了しえた。

    参考: http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8732459/1  「一県一行主義による当局主導の強圧的銀行統合の弊害 : 旧岩手銀行と三陸銀行の合併を巡る紛糾を中心に」(小川功2000『彦根論叢328』滋賀大学経済経営研究所)

 1939昭和14年秋、松尾鉱山で落盤事故。副所長が過失致死罪で起訴されたが、石川はじめ飛鳥田一雄ら社会民衆党の5人が弁護に立ち、無罪を勝ちとった。
 1945昭和20年、敗戦。日本社会党結成に参画。

 1946昭和21年、日本社会党所属で衆議院議員に当選。以来、4選される。
    庶民的・民主的な人柄は郷里の人々に愛された。県民に支持をされ死ぬまで議員であり続けた。
 政界に酒はつきものだが、宴会にでたこともなければ酔って帰ったこともない。国民が苦しみ、国も貧乏しているのに「待合や料理屋の酒を飲めるか」という理由。家に帰って焼酎に砂糖をいれて飲むのが常だった。

 1950昭和25年秋、県北で地主側が農地改革に強く反対し、小作人が解放してもらえるはずの土地も行政訴訟で負けようとしてるのを見て
 「あんな粗雑な計画では買収区域がわかる筈がない」と行政側代理人である自分の立場を忘れ、逆に県農地課当局を責め「自己の非を隠してまで勝とうとするな」と反省をうながした。
 一方、農民には「最後まであきらめるな、やるだけやって最後に争え」と諭した。
 農地関係訴訟は500件近くあり、石川はそのほとんどを手がけた。

 清廉潔白そのものの石川の口癖は「だまされてもいいから人をだますな」「かけ引きをするな」だった。 1953昭和28年3月24日、死去。
    総選挙公示の日、5選を期し入院(心臓ゼンソク)先の東京慈恵病院から立候補したその夜、急死。
    3月28日、初の日本社会党葬が営まれた。

    参考: “盛岡市ホームページ”盛岡の先人たち第36回 / 『岩手の先人100人』1992岩手日報社(写真も) / 『コンサイス日本地名辞典』1996三省堂

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