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2019年3月16日 (土)

赤痢菌を発見した細菌学者、志賀潔 (宮城県)

 平成31年(2019.3.10毎日新聞)
 “東日本大震災から8年” 「5万2000人 今も避難生活」
・・・・・ 国が復興道路と位置づける三陸沿岸道路(三陸道、仙台市、青森県八戸市)も今年度末までに約7割が開通する・・・・・・(歌津-小泉海岸間の開通を祝う関係者の写真)

 明治29年(1896.6.17東京日日)
 “海上に異様な轟音、怒濤押し寄せる”「三陸海岸を大津波襲う」
・・・・・・ 東は陸前国釜石海岸北は陸中都港にいたるおよそ30里余の間、或いは全村ことごとく海水に没し、或いは全戸みな激浪に奪われ、溺死せしもの、負傷せしもの、その数幾ばくなるを知らず・・・・・・ 被害地一帯数万の農民などは苗を流し田を荒らし、本年の収穫はほとんど皆無に帰し去るならんとのことなり。

 明治の三陸大津波の年に仙台出身の細菌学者、志賀潔が東京帝国大学を卒業した。
 志賀潔は赤痢菌を発見した人物として知られるが、業績の割に広く知られてない気がする。難しい研究や学問について、素人には教えてもらわないと分からない。ふと、気になって見てみた。

          志賀 潔

 1870明治3年12月18日、仙台藩士・佐藤真之輔の4男に生まれる。
 1876明治9年、6歳で母千代の生家、志賀家の嗣子となる。
     志賀氏は江差郡邑主の医臣で昭和60年当時は屋敷が狐小路の西角にあった。
  ?年、 宮城中学を卒業。
 1886明治19年、16歳で上京。
 1887明治20年、第一高等学校に入学。卒業後、東京帝国大学に入学。
     内気なので、病気の根源をつきとめる医者になろうと心を決める。

 1896明治29年、東京帝国大学医科大学を卒業、直ちに*伝染病研究所に入り、細菌学、免疫学の研究に従い、赤痢の病原に関する研究を始めた。
    伝染病研究所: 明治24年、北里柴三郎が福澤諭吉らの援助を受けて創立した医学研究所で、明治32年内務省に、次いで大正3年文部省に移管される。

 1897明治30年6月、東京市に赤痢が流行
    赤痢になると、ひっきりなしに下痢が続き、腸が冒され、しまいには血液までくだるようになる恐ろしい病気。当時はまだ赤痢菌が発見されておらず、治療法も見つかっていなかったため、命を落とす人も数多くいた。
 ――― 赤痢流行、29年に死亡2万人(29.11.3東京日日)
 ――― 30年に東京で患者6千以上(30.10.6国民新聞)
 ――― 北里の弟子・志賀潔、赤痢菌を発見(31.1.15東京朝日)
 ――― 32年に患者8万、死亡1万5千人越える(32.10.1国民新聞)

 1898明治31年、27歳。赤痢菌を発見して、一躍世界に知られる。
    志賀は赤痢の大流行による患者の糞便中から一種の*(かん)を発見し、赤痢病原菌と断定した。
      杆菌: 細長い棒状の細菌。結核菌・乳酸菌など。

 1901明治34年、伝染病研究所、第2回留学生としてドイツに留学。
   フランクフルト・アム・マインの実験治療研究所に入り、エールリッヒ博士について生物科学、免疫学を研究した。
   志賀はエールリッヒの下で、持ち前の粘り強さをもって研究に励み、エールリッヒのトリパンレッドに関する研究などを良く支えた・
 1903明治36年、アフリカ現地人の睡眠病の化学療法について、世界で初めての研究発表をする。
 1905明治38年、医学博士の学位を受ける。

 1911明治44年、ローマで開かれた万国結核予防医学会に出席。その帰途、再びエールリッヒに師事して結核の化学療法を半年余り研究する。
   帰国後も伝染病研究所にあって腸内伝染病、結核の治療などに関する研究を主として行う。
   また、赤痢・チフス・コレラなどの病原体の生物学的研究、予防接種法、血清療法、経口ワクチン療法などを終生研究。かたわら、脚気、発疹チフス、ハンセン病についても業績を残した。

    同年、『エールリッヒ氏科学的療法』(附・黴毒療法及診断・南山堂)を出版。見開きにエールリッヒ博士の写真とサイン。
 このほか、『中外医事新報』記事・『臨牀細菌及免疫学』など著作物、北里研究所講演録など国会図書館デジタルコレクション http://kindai.ndl.go.jp/ で読める。

 1914大正3年、伝染病研究所が文部省・東京帝国大学移管となるのに際し、北里柴三郎は辞職し別に北里研究所を開設する。
    同年発行、志賀潔著『肺と結核』(三省堂書店)に、日本結核予防協会が懸賞選定した<結核征伐の歌>を掲載。歌詞は1番から15番まで、譜面付き。

              校閲・上田万年、作歌・遠山椿吉、作曲・田村虎蔵。

  一、ああ結核よ結核よ 紅顔美麗の少年も
    鬼をあざむくますらをも もしこの病にかかりなば
    あらしの前の花なれや 恐れてもなほおそるべし
      (中略)
 一五、売薬まじない益はなし 永びくとても悲観すな
    人事尽くして天に待つ この心こそ良薬と
    意思堅剛に持久せば やがては春の回(かえ)り来ん

 1915大正4年、志賀は伝染病研究所を辞し、北里研究所に入り第4部長となる。
 1918大正7年、講演録『結核の予防』多野郡医師会
 1919大正8年、京城医学専門学校教授となる。
 1920大正9年、慶應義塾大学教授。
 1925大正14年、京城帝国大学創立により初代医学部長。
 1929昭和4~6年、京城帝国大学総長。

   ○ ドイツ学士院自然科学会、ベルギー医学士院、イギリス王立熱帯病学会、マニラ医学協会の名誉会員に推される。
   ○ パスツール研究所賛助会員に推される。
   ○ アメリカでは赤痢菌属のすべてに、シガ菌属の名をつけた。

 1944昭和19年、文化勲章を受ける。
   ――― もっとも油の乗った時代(京城帝大総長をつとめ)学問に傾倒できなかったこともあろうが、(日本での評価が遅いのは)今に残る学閥の然らしめたところであった。この時、土井晩翠がお祝いを述べた後、この愚劣さを憤り、
「六日のアヤメ、十日の菊、何だ今ごろヘボなすび」と色紙に戯書して贈ったのは有名な話(『宮城縣史・人名編』)。
    “愛誦の楽しみ、土井晩翠(宮城県)”
    https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2012/06/post-6430.html

 1948昭和23年、日本学士院会員となる。アメリカのサムズ准将の勧めによる。
 1949昭和24年、土井晩翠・本田光太郎とともに仙台名誉市民となる。
    “仙台史跡めぐり(宮城県)”
    https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2018/05/post-1b77.html

    晩年は、山本町坂元字磯の貴洋翠荘で次男の亮とひっそり暮らす。
 1957昭和32年1月25日、死去。88歳。

   参考: 『宮城縣史・人名編』1986宮城県 / 『コンサイス人名辞典』三省堂/ 『世界大百科事典』1972平凡社 / 国会図書館デジタルコレクション

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