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2019年3月23日 (土)

姫路城、姫路の漢詩人・河野鉄兜(兵庫県播磨)

 日々届く桜の便りいい季節になった。桜はどこに咲いても風情がある。路地の突き当たり、ひょろっとした木に咲く桜もいい。しかし、なんともすばらしいのが城と桜の取り合わせ、その競演は人をひきつける。新幹線に乗って春の姫路城を見学してきた。
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 姫路駅前からまっすぐな広い道、その先に姫路城が見える。道幅が広く直線だと戦災にあったのではと思うが、やはりだった。
 陸軍第10師団兵器庫があった市街は昭和20年7月の空襲で完全に焼失したが、姫路城の楼閣は殆ど無傷のまま残った。翼を広げて飛び立とうとする白鷺の姿に似て白鷺城ともよばれる城は、今や世界遺産となり大人気である。城も人と同じく運命があるようだ。
Photo_2
 優美な姿をした姫路城の中を見学できる。天守閣は5階にあたり階段は急でなかなかキツイ。友人と二人、多くの観光客とともに休み休みやっと天守閣に辿りついた。するとすばらしい眺望がまっていた。
 遠く近く眺め渡し、ふと下をみると細長い赤煉瓦の建物が見えた。陸軍第十師団の兵器庫、もと旧姫路市役所で今は姫路市立美術館になっている。そういえば、明治になって各地の城内にも
師団が置かれた。

     “第六師団の街だった熊本(熊本県)”
    “https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2017/10/post-f0a2.html”
     “東北鎮台(軍団)”
    “https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2011/04/post-3861.html”
 赤煉瓦の姫路市立美術館は前庭の緑にはえ、屋根の向こうに姫路城がみえた。しみじみ眺めていたら、幕末の姫路に「明治の一郎こと山東直砥」がいたのを思い出した。
 のちの事業家、山東直砥は高野山で僧の修業していたが、漢詩人になりたくて高野山を逃げ出し、姫路の有名な漢詩人・姫路の漢詩人・河野鉄兜に弟子入りしたのである。鉄兜には賴山陽や松本奎堂といった勤皇の志をもつ友人がいた。
 鉄兜の塾で、少年山東は勤皇の志士、松本奎堂と出会い師と仰ぎ「双松岡」塾に住み込み、勤皇の志士の仲間入り。その後の山東の波瀾の人生はおもしろいが、ここでは姫路ゆかりの河野鉄兜を紹介したい。
 
 
          河野 鉄兜    こうの てっと)
Photo_1 1825文政8年、播磨国網干(兵庫県姫路市揖保川河口町)の医業の家に生まれる。通称、絢夫。号は鉄兜(祖先伝来の兜を書斎の壁に掲げていたことに由来)。
 1837天保8年、医師で儒学者の代谷順治に入門。11年、丸亀の儒官に師事。
 1839天保10年、14歳。鉄兜の家は貧しかったので、読書欲を満たすのに神社仏閣を歴訪してその蔵書を借読した。それを憐れんだ姉が徹夜で機織りをして13文を得、鉄兜に与えた。鉄兜は姫路船場にあった灰屋という書店で、欲しかった「詩韻含英」を購入でき、感謝の気持ちを終生忘れなかった。
 1842天保13年、姫路の老臣が創設した仁壽山黌に入る。

 1845弘化2年、揖西郡伊津村で医業を開くが、医業は好きでなく学問が好きであった。
 1848嘉永元年9月、東海道から江戸に出る。
 1879嘉永2年3月、江戸から日光へ行き浄土院に滞在、10月、中山道をへて帰った。
   その間、詩文を講じて文名をあげ諸侯に招請されたが、老母がいるとして受けなかった。

 1850嘉永3年4月、網干町與の浜の古刹、大覚寺に移り家塾を開いて教える。
 1851嘉永4年9月、結婚。初めて仕官する。
   小藩一万石ながら播磨国林田藩主・建部内匠頭の知遇に感じ、藩校の敬業館教授になる。

 1852嘉永5年~1855安政2年、四国讃岐を経て大阪に至り、山陽道をくだって九州の肥前長崎から肥後熊本をまで遊んだ。
 1853嘉永6年、ロシアのプチャーチンが長崎に来航。
    このころ鉄兜は賴鴨崖に次のような言葉を寄せた。賴鴨崖は、賴山陽の3男の賴三樹三郎。鉄兜と同年で梁川星巌のもとで共に詩を学んだ仲である。
  ――― 現在の武門政治は何と言っても変態である。今日、天下騒然たるも当然であるから、早晩王政に復古する、幕府も自ら進んで大政を奉還しなかったら徳川の社稷はたもたれぬ。
 1856安政3年4月、林田藩の藩校で教えるかたわら新塾と名付けた家塾を開くと、名を慕い訪れる者が多かった。
   当時は経世と詩情が混然一体、松本奎堂頼三樹三郎(鴨崖)ら勤皇の志を抱く者、また森春濤など漢詩人や友人知人がよく訪れた。
 鉄兜は藩校教授の俸禄、門人の月謝、潤筆料など収入があったが名利に恬淡で蓄財の念がなかった。それに加えて客があると酒をすすめ大いにもてなしたため、物入りで遣り繰りがつかないことがあった。

  1857安政4年12月1日、鉄兜に男児、天瑞生まれる。
    天瑞は幼くして藩校・敬業館で学び、のち林鶴梁に入門。
 1858安政5~安政6年、安政の大獄。親しい友人、賴鴨崖も刑死した。
 1861文久元年、100日の暇を乞い、9月大阪から京都、美濃をへて京都に遊ぶ。

 1862文久2年、藩主に従い、大番頭となって京都に上り、二条城守護の任にあたる。
     時は幕末、尊皇の気運が高まり、吉野に伝わる南朝の事蹟を詠う詩が盛んに作られ広く愛唱された。そのなかでも河野鉄兜の七言絶句はよく知られる。
          芳 野

       山禽叫断 夜寥寥
       限りなきの春風 恨み未だ消えず
       露臥す 延元稜下の月
       満身の花影 南朝を夢む

 名も知れぬ山鳥がしきりに啼いて、芳野の夜は非常にものさびしい。春風はそよそよ吹いて心を柔らかにするが、限りない南朝方の御恨みは、現在でも消え去るものでない。自分はその御恨みについて考えながら、一夜なりとも後醍醐帝の御陵(延元稜)に御伽しようと、珍しく晴れた月の下に横になると、いつかうつらうつらとして、桜花の影をあびながら、南朝の事どもを夢に見た。
 1863文久3年、病を得る。性豪放、酒を愛しすぎたための糖尿病らしい。
 1867慶應3年、死去。42歳。謚して文崇先生という。
    著作『旧匠文奇貨』『小日本史』など。『鉄兜遺稿』は山東直砥の援助により刊行(国会図書館デジタルライブラリーで閲覧可)

    墓ははじめ林田村の道林寺にあったが、のち三昧谷の墓地に改葬。
    墓誌は生前の親友、柴秋村が記した。道林寺住職とは仲が良く米や金を借りることもあった。
 なお、家に蓄財はなく残された妻は亡き夫の遺物を売ってしのぐ有様だった。そこで、遺児のうち兄は山東直砥が、妹は姫路に住む門弟がひきとり面倒をみる。
 1872明治5年、神奈川県庁役人となった山東直砥は、神奈川県の洋学校(修文館星亨教頭)に師の遺児、河野天瑞を入学させ、その後も学資をだすなど援助を惜しまなかった。

 1883明治16年、天瑞は工部大学・土木工科を卒業し工部省鉄道局に出仕。
   その後は土木会社技師、呉鎮守府の建設工事に携わる。
   また大阪北浜に工業事務所を開き、土木の設計監理。更に、別子銅山の技師もつとめた。
 1925大正14年3月11日、阪神間住吉の自宅で死去。68歳。
 1928昭和3年11月10日、天皇陛下即位の大礼に際し、河野鉄兜に正五位を贈位
    鉄兜の死から61年後にあたる。生きていれば103歳となる。
 
   参考:『詩人河野鉄兜』1932龍吟社 / 『コンサイス人名辞典』三省堂 /  『郷土資料事典・兵庫県』1997人文社
『明治の一郎 山東直砥』
  中井けやき
  2018年
  百年書房

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