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2019年4月13日 (土)

抄紙会社(のち王子製紙)、深谷駅、渋沢栄一、山東直砥/一郎(埼玉県・和歌山県)

 もうすぐ新元号「令和」、ついで紙幣を全面的に刷新すると発表された。景気がいいと思えず、また少子高齢化・中高年の引き籠もりとか重たいニュースがあるのに、新元号・新紙幣の「新」で妙に明るい空気が漂い不思議だ。でも、深く考えず流されている。それはさておき、1万円札の顔は福澤諭吉から渋沢栄一となる。
 『明治の一郎 山東直砥』を執筆中、主人公が渋沢と家族ぐるみの付き合いと知り、東京王子、飛鳥山の渋沢史料館を訪ねた。史料は得られなかったが、そのとき「業績があるのに余り知られていない」と聞いて意外だった。テレビの街頭インタビューでも渋沢栄一を知らない人はけっこういた。しかし、今後は業績に見合った人気となるだろう。                                                               一万円札、表は渋沢の顔、裏は東京駅である。ところで、深谷駅は写真のように明治の赤煉瓦の東京駅と雰囲 気が似ている。
    深谷駅の開業は1883明治16年と古いが、現在の駅舎は1966昭和41年建て替えで比較的新しい。さらに赤煉瓦に見えるのは煉瓦タイル、駅舎が線路をまたいでいるので昔のままの煉瓦だと重すぎるらしい。レトロな雰囲気がいい。今はやりのインスタ映えしそう。
 その深谷駅からバスで30分、東京駅の赤煉瓦を焼いた窯が保存されている日本煉瓦史料館がある。
 ちなみに、明治政府が洋風建築による官庁街建設を推進したため、渋沢栄一が中心となり煉瓦を大量に供給する民営工場、日本煉瓦製造株式会社が設立された。

    “論語とソロバン、煉瓦、渋沢栄一 (埼玉県)”
    https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2018/02/post-0e9f.html

    “旧国技館・東京駅設計の辰野葛西事務所、葛西万司(岩手県)”
    https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2016/11/post-cb54.html


 2014平成26年、地域探訪講座<渋沢栄一ゆかりの史跡と『世界遺産』田島弥平旧宅を巡る>に参加。集合が埼玉県伊奈町の県民活動センターで自宅から遠く迷ったが前日、県活センターに宿泊して参加。講座のため泊まる物好きは自分だけと思ったら他にもいた。
 見学先は深谷駅、日本煉瓦資料館、誠之堂・清風亭、尾高惇忠生家、渋沢栄一記念館、田島弥平旧宅(世界遺産)である。順に案内されて世界遺産の富岡製糸場のみでなく、絹産業遺産群としたことに納得。
 さて、見学に参加したのは渋沢と山東が並ぶ資料探しのためだった。結果は残念だったが、端緒がつかめてよかった。以下は渋沢・山東がからむ場面。
 
 1872明治5年、山東直砥は神奈川県令(県知事)陸奧宗光によばれ、神奈川県に出仕
    この当時の横浜は、生糸輸出がますます増大し、大蔵省は海外輸出の目的で横浜へ移送された蚕種検査を生糸改会社に委任。改会社は大蔵省の印紙を地方官庁から受けとって製造人に売り渡し、また手数料をとって製品を検査、大きな利益があった。
 すると、外国側が自由貿易を阻害すると抗議してきて改会社解体を要求してきた。
 そこで、神奈川県庁は生糸改会社設立時の大蔵省(大隈重信)担当官だった渋沢栄一を訪ね、事情を話した。
 県からの事項、照会、文書などに対応するなかで渋沢と山東は互いを知り、気が合ったらしい。以後、二人の交際は長きにわたり互いの事業でも協力し、家族ぐるみ付き合いをするようになる。

 1873明治6年、山東直砥は神奈川県参事、今でいえば副知事に就任する。
     同年、渋沢栄一は硬直した体制に限界を感じ大蔵省を辞任。

    実業界へ転進した渋沢は、日本最初の洋式製紙会社(のち王子製紙)を発案し、三井組・小野組・島田組が共同出資して設立する。

   ――― 抄紙会社の工場建設は鹿島組の祖・鹿島岩蔵が手がけることになった。工場はなかなかの大建築でイギリスの機械技師フランチースメン、アメリカの製紙技師トーマスポットムリー二人の監督のもとに岩蔵が建築することになったのである。
 工場を建てる場所の選定も依頼された鹿島岩蔵は山東直砥とともに、候補地の東京の飛鳥山、城北王子村に足を運んで見て回り、結局そこに決まった。山東は渋沢に報告の手紙を送っったそうだが未見。

 1874明治7年、工場建屋の工事がはじまると、山東は翌年末の完成のときまで、何度か東京王子の飛鳥山に現場を見にいった。そのため、「渋澤の秘書のような仕事をしていた紀州人」といわれたが、当時の山東は神奈川県参事であった。
 おそらく、政府の役所に出向いたり、あるいは森春濤の漢詩会に出席するなど公私とも上京の機会が多く、その都度、王子に足を運んでいたのだろう。鉄道開通以来、東京・横浜はぐんと近い。

 1878明治11年、渋沢は「商人の輿論をつくる」べく東京商法会議所を創立、初代会頭となった。民間の経済団体として活動している東京商工会議所の原点である。
    2014年、東京の渋沢史料館で企画展があり、「商法会議所設立之儀願書」などの展示があった。

 1885明治18年、経済や貿易が活発になり国内外の協力が必要として日本貿易協会が創立された。設立には松尾儀助(肥前の茶商)、大倉喜八郎(ホテル・大倉財閥)、河瀬秀治(官僚・実業家)らが関わった。
 鹿鳴館で会合して始まった協会は京橋区出雲橋に新館をたてたが、のち京橋区日吉町に移転。
 文部省御雇外国人アメリカ人フェノロサが日本美術輸出に関し講演を行ったりした。
 1888明治二十一年一月、渋沢栄一が協会幹事に加わる。さらに山東直砥・子安峻・三野村利助・安田善次郎らが入会、会員は新旧あわせて74名となった。
   同6月5日、臨時総会。会員はフロックコート着用、出席者は山東ら34名。
         渋沢が議長となり協会のクラブ組織化、貿易協会の目的維持、拡張する案などを討議。
   同7月1日、出雲橋に煉瓦二階建て新館竣工。娯楽場・会食場・撞球台もあった。

 1897明治30年1月、原胤昭が東京神田須田町の自宅を東京出獄人保護所にし、寄宿舎を設立。協議員は土方久元・清浦奎吾・渋沢栄一・島田三郎ら会員四十名。山東もその一人で事業に協力、応援をした。

    参考:『明治の一郎 山東直砥』中井けやき2018百年書房
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 2023.1.11毎日新聞
  「れんがのまち」取り戻す
  <深谷・鬼瓦職人が奮闘> 途絶えた伝統再現へ、企業も資材提供 
  東京駅の駅舎など歴史的名建築に使われた深谷市産のれんがを復活・・・・・実業家渋沢栄一らが1887(明治20)年に「日本煉瓦製造」を設立・・・・・需要の減少で2006年に廃業となり・・・・・深谷市の鬼瓦職人塚越久義さんは・・・・・20年7月、仲間と2人で深谷の土を使って製作を始めた・・・・・試行錯誤していた21年12月、塚越さんの取り組みを知った石材関連の企業から、深谷の年度と砂を提供すると連絡があった。届いた材料を配合すると、割れずに焼き上げることができた・・・・・。

 

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