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2019年4月 6日 (土)

明治の熊本ふたりの偉人、塘林虎五郎 & 鳩野宗巴(熊本県)

 今春は花冷えで桜が長持、おかげで卒業式も入学式にも満開の桜がいい感じ。ランドセルの一年生を見るだけでも希望がもてる。ランドセルには教科書はもちろん家族の思いも詰まって重いだろうが、ガンバレ。
 ところで明治の昔、親や経済に恵まれず学校に通う当たり前のことが叶わない子どもがいた。大人も生きていくのが大変な時代、なおざりにされる子どもが少なくなかったのだ。そのような子らに教育と仕事を与えたのが、熊本の社会事業家・塘林虎五郎であり、彼を後援したのが医は仁術、熊本の医聖・鳩野宗巴である。

         塘林 虎五郎   (ともばやし とらごろう)
         鳩野 宗巴(八世)   (はとの そうは)

 1844天保15/弘化元年、鳩野宗巴、熊本城下に生まれる。幼名は健太郎。号は健甫、壷渓。
    幼いころから、父に従って医術を学ぶ。
    長じて細川藩御典医として熊本城下で医術を業とする。

 1866慶応2年11月3日、塘林虎五郎、肥後国熊本飽田郡銭塘村(熊本市)で生まれる。

 1868明治元年、戊辰戦争
     鳩野宗巴25歳。正月、藩命により関東に出張し、熊本一番隊医長として、上野戦争などに参加。
           ついで、明治政府が横浜に設けた軍陣病院に派遣。この病院の院長は明治政府に敵兵も差別無く治療することを働きかけた、英国の軍医ウイリアム・ウイリス。宗巴は英医シドールの元、薩長土三藩の負傷兵300人の治療を担当、敵味方の区別なく救護、治療することを学んだもよう。

 1877明治10年、西南戦争。半年間、町は戦禍にさらされ市民の多くは田舎に疎開。
     塘林虎五郎11歳。西郷軍に取り囲まれた熊本城、砲弾が飛びかう乱離のなか避難所にいた虎五郎は、父が10日も姿を見せないので大いに心配。そして、硝煙弾雨のなか父を捜しに出たが、薩摩兵に叱られ泣く泣く引き返す。その4日後、父が帰りうれし泣き。

     鳩野宗巴33歳。 2月19日、熊本城天守閣の炎上の時に鳩野家も全焼。
              2月23日、西郷軍熊本隊隊長・池辺吉十郎から薩摩軍の治療を強要される。宗巴は敵味方の区別無く治療することを条件に治療を引き受け、藩医の河喜多宗磧ら8名で治療を開始。
    戦後、征討軍本部から利敵行為の疑いで裁判にかけられる。 しかし、8月11日九州臨時裁判所のおいて「賊ニ与スル意ナキヲ以テ」罪を問われず。
 この医療活動は皆自費で行われ、近隣の婦人達が競って看護に協力し、初めての戦陣での組織的な女性の看護活動も行われた。

      “西南戦争と熊本隊、池辺吉十郎父子(熊本県)”
      https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2018/06/post-943c.html

 1881明治14年、虎五郎の家は相変わらず貧しく、市内の壷用小学校給仕となる。 俸給は家の借金返済、米代となった。書物が買えず借りて勉強するため夜遅くに、朝は3時に起きて学んだ。 Photo_8thumb1

 1886明治19年12月、虎五郎20歳。試験を受け、陸軍教導団歩兵科に入学する。
   教導団: 下総鴻之台にあり陸軍下士官を養成(のち砲兵連隊)。
 1888明治21年5月、卒業。陸軍歩兵二等軍曹に任命される。
 1889明治22年、一等軍曹。後歩兵第十三連隊に勤務。

 1890明治23年9月、依願現役免除になって帰郷。
    理由は家事上の故障、一家は借金を抱え間借りしていたのである。虎五郎は家に戻っても居る場所も無い有様。そのとき、同じように貧しく、義務教育すら受けられない境遇の子どもたちを知り、その救済を志す。
 写真、塘林虎五郎。

 1892明治25年4月、塘林は貧児救済教育の必要を感じて熊本城の北、坪井川の東、わずかに雨露をしのぐ茅屋を熊本貧児寮(のち大江学園)とし、肥後自活団を組織するが経営に苦心する。
     ――― 熊本市西坪井町字小姓小路(現坪井5丁目)。男女2室に分かれ、男室にては豆腐、こんにゃくを製造して師団の官舎その他にひさがしめ、女子には敗布を綴りて雑巾を製して師団に納めしめ、その収益を以て筆紙などの学費に供せしむ。
 夜7時より10時までをその授業時間とす
 塘林氏の日課は、朝は自家の生計を調理する傍らに貧兒を指揮して豆腐こんにゃくを造らしめ、午後は九州学院に出でて歩兵繰練を教授し、夜は貧兒寮にありて授業に従事す。而して月々の収入はわずかに九州学院より得る所の6円あるのみ。そのうち3円は老親の奉養にあて、3円は貧兒を養う料にあてたり(『師範学校国文教科書参考上』光風館)

  同年4月、鳩野宗巴は進んで施設医(内科外科)となり、大坪氏(眼科)とともに20年にわたって報酬を受けずに協力し続ける。

 1894明治27年、日清戦争。開戦となり塘林虎五郎招集される。
    従軍の留守中を妻の乙亥、姉の琴子に頼んで出征。
 1895明治28年7月、日清の和議なり招集解除、塘林は凱旋帰郷。戦功により勲八等、白色桐葉章。
    以来、6年間、貧児孤児の保育教養、事業経営に努めるも辛酸をなめる。

    日清戦争の後、招魂祭が盛大に行われ、鳩野宗巴は軍人と共に戦死した馬も、等しく君国のために倒れたとして、独力で坪井宗岳寺境内に馬の碑を建立。

 明治29年5月、塘林虎五郎著『貧児之前駆、第1集』日本新聞社を出版。
    序「明治27年11月11日夜・福岡舞鶴城の兵営にて 塘林虎五郎」

 1901明治34年10月1日、すすめられて肥後慈恵会の事業に移管し、肥後慈恵会教育部と改称、推されてその部長となる。創立以来、養育されたもの418人。
 1903明治36年4月、肥後自活団を創立。慈恵会は15歳を過ぎると収容できないので出身者を保護する目的で創立。授産事業を開始するとともに、夜間中学労学館をおこし、就業者の教育につとめた。

 1904明治37年、 塘林虎五郎著『熊本貧児寮(現肥後自活団)創設十年間の記録』元貧児寮出身同窓倶楽部刊
 明治43年3月、塘林虎五郎、文部大臣より多年の功績により表彰される。

 1917大正6年3月8日、鳩野宗巴(八世)、74歳で没
    墓は熊本市横手町の妙永寺。戒名は守拙院日笑壷渓居士。
    八世宗巴は、医業の他にも質屋を営業し、無利息受出しをするなど貧民のため、また公益のためには義金を投じている他、往診で出されたお菓子を包んで帰り道で貧しい家庭の子供に与えるなどしていた。

 大正7年2月、塘林虎五郎、救済事業に尽力した功績により表彰される。
 1922大正11年、夜間中学・労学館を創立。
    この間、文部省・内務省・宮内省及び教育会などより表彰される。
 1928昭和3年、藍綬褒章。
    熊本県社会事業協会の一学園となり、肥後自活団を組織して孤児に仕事を与える。
 1932昭和7年、私設社会事業功労者として終身奨励金を受ける。
     11月2日死去。67歳。

  参考:<日本赤十字社・熊本県支部> https://www.kumamoto.jrc.or.jp/kumamoto/3534/   / 『反省を社会事業に捧げたる人々』1926慶福会 / 『新熊本市史』2003熊本市 / 鳩野宗巴 http://www7b.biglobe.ne.jp/~koira/hatono/ / 国会図書館デジタルライブラリー

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2019.4.10
  新元号「令和」発表、次はお札の肖像が代わると発表された。
  新1万円札の顔は渋沢栄一で深谷市が湧いている。下記は、赤煉瓦の深谷駅や渋沢史料館をを訪ねた時書いた記事です。
     <2018.2.24 論語とソロバン、煉瓦、渋沢栄一埼玉県)>

   

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