滝廉太郎が生きた明治の24年間 (東京・大分)
昔、小学生だったころ隅田川の土手で遊んだが、今や堅固な堤防が築かれ、トンボやバッタを追いかけた遊んだなど想像できない。たまに両国や浅草にでかけ隅田川の風に吹かれても昔を思い出すことはない。でも、「花」
♪春のうららの隅田川 のぼりくだりの舟人が 櫂のしづくも花と散る 眺めを何にたとふべき・・・・・・ が流れると、隅田の川面を渡る風までよみがえる。
「花」の作詞者は、東京音楽学校(東京藝術大学)教授・竹島羽衣、作曲は同助教授・滝廉太郎、明治末期の小学校唱歌から日本中の愛唱歌となり、今なお歌い継がれている。
『わが愛の譜 滝廉太郎物語』(郷原宏1993新潮社)に留学先のドイツで病魔に襲われた廉太郎を、文学士の服部宇之吉が見舞う場面を読んで、明治の一時期が鮮明に浮かんだ。
服部宇之吉は1900明治33年清国(中国)に留学中、義和団事変(北清事変)に遭遇。義和団に包囲攻撃された北京の11ヶ国の公使館員、外交官、居留民、護衛兵らとともに籠城して戦った。そのせつ、軍人が少ないので義勇隊が組織され服部もその一員として、柴五郎に率いられ日本兵らと共に戦った(『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』)。
服部は柴五郎と同郷の福島県人でのち東大教授、大正期にハーバード大学教授となった明治期の東洋学者である。
服部のその後を知らなかったが、前書で清国からドイツへ留学と分かった。異国で留学生同士、病に倒れた友を励ましたころの日本は、日清戦争から5年後、軍歌の雰囲気がただよっていた。そうした社会にあって廉太郎は芸術歌曲を創り、すぐれたピアノ演奏をしていた。
滝 廉太郎
1879明治12年8月24日、旧豊後日出(ひじ)藩士、滝吉弘の長男として東京で生まれる。当時、父吉弘は官吏で大久保利通に見いだされ内務省の役人となる。ただ、大久保が東京紀尾井坂で暗殺された後は地位に恵まれなず、地方の上級官吏となる。
1882明治15年、吉弘が神奈川県少書記官となり横浜の官舎に転居。一家は外国人と付き合い、音楽会にいくなど西洋文明をとりいれ、音楽が身近にあった。
1886明治19年、神奈川師範附属小学校入学。姉たちが習うバイオリンに興味をもつ。
1888明治21年、父が*非職となり、東京に戻る。廉太郎は麹町小学校に転入。
*非職: 官吏の地位はそのまま職務のみを免じること。3年を1期とし現給3分の1を支給、満期免官。
1889明治22年3月、父が大分県大分郡長となり赴任。廉太郎は祖母と姉と東京に残り高等科に進む。
1890明治23年、祖母と姉が死去。廉太郎は大分の両親にのもとに帰り、大分県尋常師範付属小学校高等科に1年に転入学。
1891明治24年、父が大分県直来(なおらい)郡長となり、一家は竹田町の官舎に移る。
1894明治27年4月、15歳。大分県直来郡高等小学校卒業。
東京麹町平河町の従兄*滝大吉の家に寄留し、*東京音楽学校を受験、合格。
*東京音楽学校: 国立の音楽教育機関。廉太郎が生まれた明治12年設置の音楽取調掛に始まる。明治22年、*伊沢修二が初代校長、近代音楽の中心的な存在。戦後、東京美術学校と合併、東京藝術大学音楽部となる。
“小学唱歌・音楽教育と吃音教育の先達、*伊沢修二 (長野県)”
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2016/01/post-6a27.html
7月、日清戦争開戦。従兄*滝大吉、朝鮮に出征。
*滝大吉: 浅草凌雲閣(通称十二階、関東大震災で破壊)を施工、完成。
1895明治28年、廉太郎は滝大吉一家とともに本郷区西方町に転居。
近くで貧民学校拡張費募集の音楽会があり、ケーベル博士のピアノ演奏に感動。
音楽学校では幸田露伴の妹で先輩の幸田幸(バイオリン)とテニスを楽しんだり、作詞が得意の由比(のち東)クメ、島崎藤村、幸田露伴などと知り合う。
1897明治30年、脚気になり竹田の旅館で療養。訪ねてきた友人と岡城趾へ散歩。
音楽雑誌に二つの作品「枯野の夕景」「命をすてて」が掲載される。
1898明治31年、奏楽堂で、陸海軍楽隊と学友会合同の朝鮮留学生学費補助義援音楽会。廉太郎はシューマンの「楽しげの農夫」をピアノ独奏、好評を博す。
5月、ケーベル博士が東京音楽学校に着任。博士にピアノと作曲の指導を受ける。
7月、東京音楽学校本科(校長*矢田部良吉)を、18歳11ヶ月で卒業。
*矢田部良吉: 植物学者・詩人。東大教授・小石川植物園長・東京師範学校長・東京博物館長などを歴任。
文部省は音楽学校を、高等師範学校の一部門として、上級音楽教員の養成を図った。書記の卒業生の多くは地方の師範学校や女学校の教師になった。
1899明治32年4月、高等師範学校の付属だった東京音楽学校は専門学校として独立。
9月、廉太郎は研究科2年に進学、同時にピアノ授業を委嘱され助教授となる。また、由比(東)クメの作詞に曲を付けるなどして活躍。さらに、友人に頼まれ幼稚園唱歌も作詞・作曲する。このころ、*巌谷小波を訪ねて親しくなる。
*巌谷小波: 童話作家。創作童話「こがね丸」。博文館『少年世界』などを主宰。
1900明治33年、廉太郎は将来の大成を期待され、「ピアノ及び作曲のため」ドイツ・ライプチヒ王立音楽院に留学を命ぜられる。ところが、廉太郎の後任教師が見つからない。また廉太郎もドイツへ行く前に、代表曲を残したい思いもあり留学を1年延期。
竹島羽衣の「春」に曲をつけ、ケーベルに、西洋の旋律で日本の心が表現されていると讃えられる。これが、春のうららの隅田川ではじまる愛唱歌「花」である。
11月、組曲『四季』楽譜集、神田の共益商社から刊行。
――― これこそまさに日本語で書かれた歌詞に基づいて日本人が作曲した国産第1号の芸術的な歌曲だった。こうして廉太郎は、若干21歳にして世界に通用する才能を自ら立証して見せたのである(『わが愛の譜-滝廉太郎物語-』)。
『中学唱歌集』をつくるにあたり公募があった。先ず詩がえらばれ、廉太郎は小山作之助教授から示された、「荒城の月」(作詞・土井晩翠)、「箱根八里」(鳥居忱)、「豊太閤」三編を選んで応募、三編とも入選する。
詩、曲ともに日本人に愛され続けている「荒城の月」が生まれた。しかし、詩人*土井晩翠と作曲家滝廉太郎、二人の邂逅はまだ先である。
“仙台史跡めぐり(宮城県)”
また、『幼稚園唱歌』17編の作曲も熱心にした。「お正月」「鳩ぽっぽ」のような言文一致の「口語体」の作品を発表。当時において「唱歌」を一般的にひろめることになった。
1901明治34年4月1日、官報:文部省留学生 滝廉太郎ハ去月二十八日出発セリ。
廉太郎はドイツ船ケーニヒアルベルト号で横浜港を出港。船内ではボーイが組織する吹奏楽を楽しみ、またの技術の高さに感心する。1ヶ月後、イタリアのゼノアで下船、5月18日、汽車でベルリンに到着。ひとまずノーデンドルフの下宿に落ち着く。
5月20日、日本語教師としてベルリンの大学に招かれていた巌谷小波が訪ねてきた。先に留学していた幸田幸にも会う。
6月7日、汽車でベルリンを発ち、留学先の国立音楽院のあるライプチヒに向かう。
ドイツ語はケーベル博士と交流があったので日常会話は不自由なかった。学校に通うかたわら、ゲバント・ハウスというコンサートホールに通い、一流の演奏を聴いた。
11月、体調が悪くなり熱が下がらず寝込んでいると、服部宇之吉が様子を見にきて、廉太郎を入院させる。廉太郎はそのまま肺結核で入院、年が明けても退院できない。
1902明治35年、廉太郎は文部省への休学願いを服部に代筆してもらう。東京音楽学校では、廉太郎の次の留学生を指名、廉太郎に帰国命令が出された。
6月、廉太郎はライプチヒ在住の日本人留学生に見送られ日本郵船の若狭丸で帰国の途につく。途中、船の修理のためロンドン郊外テームズ川のチルベリー・ドックに接岸、五日間碇泊することになった。
8月25日夜、土井晩翠と姉崎嘲風が船を訪れた。廉太郎は宗教家・評論学者の姉崎とは知り合いだが、晩翠とは初対面。
「荒城の月」作詞者と作曲者がはじめて出会ったのである。そして二人は二度と相見ることはなかった。
テームズの川風は廉太郎の病状に良くなかったらしい。廉太郎は甲板に出ることを禁じられ退屈な船旅のまま帰国。
1902明治35年10月30日、官報:留学生帰朝。文部省外国留学生 滝廉太郎ハ本月十七日帰朝セリ。
1903明治36年6月29日、故郷の大分に帰り養生していたが病は癒えず死去。
ちなみに、明治は45年続くも廉太郎の明治はたった24年。あまりにも短い。
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