流浪の俳人・種田山頭火と熊本(山口県・熊本県)
国会図書館デジタルライブラリーには県民だより・お知らせの類もあり、見るとそれぞれの地域の特色があり興味深い。たまたま、熊本県をみていたら「全国山頭火フォーラムin日奈久」熊本県八代市の日奈久(ひなぐ)温泉は、放浪の俳人、山頭火が絶賛した湯とあった。
分け入っても分け入っても青い山
―――1925大正14年2月、出家得度して法名を耕畝(こうぼ)という山頭火は、肥後の片田舎の味取(みとり)観音の堂守として赴任したが、一年余りで「解くすべもない惑いを背負うて*行乞流転の旅にでた・・・・・・ 青い山の句が出来たのもこの頃の旅の途中である。熊本県境から宮崎県の高千穂峡へ抜ける草深い山中での作といわれているが、高千穂神社の裏参道に山頭火の直筆を刻した句碑がある(『版画・山頭火』)。
*行乞:托鉢。行く行く物を乞う意。
種田 山頭火 (たねだ さんとうか)
1882明治15年12月3日、山口県佐波群西佐波令村(防府市)の裕福な地主の家に生まれる。
本名、種田正一。号は山頭火・田螺公(でんらこう)。田螺はタニシ。
1892明治25年3月6日、母フサが井戸に身を投げて自殺。
祖母ツルが嫁の死で残された5人の子どもを育てることになった。父・竹治郎は16歳で後ろ盾のないまま家を継ぎ、政友会など政治にかかわり宴席を設け、放蕩をし家はたちまち没落、妻を死に追いやったのである。
1896明治29年4月、山頭火は周陽学舎(防府高校)に入る。
文芸同人雑誌などを発行、俳句にうちこむようになった。
1897明治30年、山口尋常中学4年に編入。卒業生に国木田独歩、中原中也がいる。
1901明治34年5月20日、山口市内の中河原永楽座で大学設立基金募集の遊説にきた高田早苗の演説「国民教育論」を聴き、東京専門学校(早稲田大学)進学。
学友と大隈重信を訪問。坪内逍遙、波多野精一、阿部磯雄らの指導を受けた。
1904明治37年、学費未納がきっかけで神経衰弱になり退学、帰郷。
父が大道村(防府市大道)の酒造場を買収し一家で移り住み「種田酒造場」を開業。
1909明治42年8月、種田家の屋敷をすべて売却する。
28歳の山頭火は父のすすめで20歳のサキノと結婚。しかし、結婚一週間目に夜道を人力車で60kmも離れた津和野まで酒を飲みにいった。翌年、長男誕生。
――― 最初の不幸は母の自殺。第二の不幸は酒癖、第四の不幸は結婚、そして父になった事(基中日記)。
1913大正2年、荻原井泉水に師事「*層雲」に発出句。俳号に山頭火を使い始める。
「層雲」: 井泉水が創刊。自由律俳句や季題無用論を唱え、青年を魅了した。
7月、山頭火、朝鮮に旅行。
1915大正4年、国事国語問題に興味。口語自由詩など試作。
1916大正5年、「種田酒造場」が破産し父は行方知れず。山頭火は妻子と熊本に行く。
熊本の文芸誌「白川及新市街」同人の兼崎地燈孫に共鳴していたのもある。
5月、熊本市通町に古書店(屋号・雅楽多)を開業。
1917大正6年、熊本歌壇が活発で、歌誌「極光」「珊瑚礁」などの短歌会に出席する。
1919大正8年、山頭火は妻子を熊本に置き去りにして、知人を頼って上京。
額縁商の行商、のちセメント試験場でアルバイトなどする。
1920大正9年、麹町に住み、ロシア人亡命者と交わる。一橋図書館臨時雇い。
1921大正10年5月、父死亡。6月、正式に東京市事務職員となる。
1922大正11年、都会生活に疲れ、熊本に帰る。離婚。
12月、42歳。東京市事務員を神経衰弱のため退職。東京で額縁などの行商。
1923大正12年9月1日、関東大震災に遭う。避難中、憲兵に拉致され巣鴨刑務所に。
9月末、熊本に帰る。10月、熊本川湊の蔵の二階に仮寓。
1924大正13年12月、酒に酔って熊本市公会堂前を進行中の電車を急停車させる。
――― 彼はひどく酔っていた。群集は彼を囲み、激しく罵倒し、いまにも集団で暴行を加えるところであった。このとき、木庭という「熊本日日新聞」の記者が機転をきかせ、山頭火をすばやく拉致し市内東外坪井町の禅寺の報恩寺(曹洞宗)に連れ去った。住職の義庵はこれを保護し、寺に住みつかせた(『山頭火の世界』)。
1925大正14年2月、報恩寺にて出家得度、法名は耕畝(こうぼ)と改名。座禅修行。
3月、熊本県鹿本郡植木町味取の観音堂(曹洞宗瑞泉寺)の堂守となり、托鉢。
1926大正15年4月、山林独住に倦み観音堂を去る。朝と晩に鐘をつき近在へ行乞という日常。読書し句作もできたが長くは続かず、一鉢一笠の行乞放浪の旅に出る。
4月7日、思慕していた俳人・尾崎放哉(鳥取池田藩士の子)が死去。42歳。
1927昭和2年、広島県内海町にて新年を迎える。9月、山陰地方行乞。
1928昭和3年、徳島で新年を迎え山陽地方を行乞。
3月、熊本の「雅楽多」に帰り8月まで滞在。11月、阿蘇内牧にて俳友らと交流。
12月、福岡をへて熊本に帰り、市内春竹琴平町の二階を借りて自炊生活。
1929昭和4年11月、阿蘇・内牧、塘下温泉で層雲の句会に出席。
コスモス寒く阿蘇は暮れずある空(井泉水)
すすきのほかりさえぎるものなし(山頭火)
1930昭和5年9月、49歳。長い旅に。熊本を出発するとき日記や手帳を焼きすてる。
山頭火が泊まった日奈久温泉街の片隅の木賃宿の「おり屋」は廃業しているが、建物は現存し、内部の見学が可能だという。
――― 温泉はよい、ほんたうによい、ここは山もよし海もよし、できることなら滞在したいのだが、――いや一生動きたくないのだが(『行乞記』種田山頭火)・・・・・・
1931昭和6年、ガリ版刷個人誌「三八九」第一集を編集発行。約10ページ。
3月、泥酔がもとで留置所に拘置される。12月、一鉢一笠、自嘲の旅に出る。
1932昭和7年、51歳。福岡県長尾の木賃宿で新年を迎える。九州西北部を行乞。
うしろすがたのしぐれてゆくか
あまだれの音も年とつた
6~8月、川棚温泉・木下旅館に長期滞在。
9月20日、小郡町矢足の山麓にある破屋を修理しただけの小さな家に入る。名付けて「其中庵」(ごちゅうあん)。この年、満州国建国宣言、五・一五事件があった。
1933昭和8年、52歳。「三八九」第五・六集。12月、荻原井泉水を招き其中庵で句会。第二句集『草木塔』刊。
ふとめぜめたらなみだこぼれていた
ほととぎすあすはあの山こえてゆかう
1934昭和9年、福岡地方行乞、広島・神戸・京都・名古屋、木曾より飯田へ。
1935昭和10年7月、其中庵で新年。北九州に旅し俳友たちと交友、酒会。
カルチモン多量に飲んで自殺をはかり未遂に終わる。
――― 幸か不幸か、雨が降ってゐたので雨にうたれて、自然的に意識を回復したが、縁から転がり落ちて雑草の中へうつ伏せになってゐた。顔も手足も擦り剥いた。さすがに不死身に近い私も数日間動けなかった。水ばかりを飲んで、自業自得を痛感しつつ生死の間を彷徨した。
同年12月6日、「旅に出た、どこへ、ゆきたい方へ、ゆけるところまで。俳人山頭火、死場所をさがしつつ私は浮く!」
1936昭和11年、岡山・広島・徳山・八幡・門司・大阪・京都・伊賀上野、伊勢神宮参拝。鎌倉・東京・伊豆・甲州路・信濃路・柏原・新潟・山形・仙台・平泉・福井・永平寺参籠をへて7月、其中庵に帰る。
1937昭和12年、九州地方行乞。第五句集『柿の葉』刊。
11月、泥酔無銭飲食のため山口警察署に留置される。
1938昭和13年、大分行乞。11月、其中庵くずれ山口市湯田温泉に仮寓(風来居)。
うまれた家はあとかたもないほうたる
1939昭和14年、風来居にて新年。近畿・東海・木曾・伊那、四国遍路の旅をする。
酒飲めば涙ながるるおろかな秋ぞ
一握の米をいただいてまいにちの旅
1940昭和15年、一草庵にて新年。4月、一代句集『草木塔』刊。中国・四国・九州の旅にでる。6月、最後の旅を終えて帰庵。
10月10日、脳溢血で倒れる。翌日、死去。59歳。
生き身のいのちかなしく月澄わたる
おちついて死ねそうな草萌ゆる
参考: 『山頭火の世界』石寒太1991PHP研究所 / 『版画・山頭火』秋山巌1986春陽堂 / 『現代日本文学大事典』1965明治書院
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せきをしてもひとり 尾崎放哉
―――このところ、電車の中や会合の際、せきをしづらい。コロナと思われないか、と気になるのだ。せきは病気ではなくて不意にでることもある。二に家で咽喉を刺激されてでるのだが、この自由律俳人・放哉の句のせきは、さて、どんなせきだろう。軽い風邪かも・・・・・(2022.1.27毎日新聞<季語刻々>坪内稔典)。
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