神田ニコライ堂施工の会津人、長郷泰輔 (福島県)
だいぶ前、東京神田駿河台・御茶ノ水にある病院に入院し白内障の手術を受けた。翌朝、鏡にうつる自分の顔のシミ・ソバカスに、母に言われた「オンナじゃなくてカンナだよ」が浮かんだ。無精でろくに化粧もしない娘が嫁に行けるか心配する母の冗談を思い出しつつ、窓を開けると、ニコライ堂がどーんと目の前にあった。関東大震災後に再建された会堂が、壁面の装飾まではっきり見え感動した。
もともと明治期に、ニコライ堂(日本ハリスト正教会の教会堂)を神田駿河台に完成させたのは、ロシアの僧侶ニコライというのは有名だが、工事をしたのは長郷泰輔という会津人である。
戊辰戦争で賊軍とされた会津や東北諸藩の出身者は困難に出遭うが、一方でそれをバネに努力し大成した人物は少なくない。長郷もその一人のようだが、今まで知らなかった。どのような人物なのだろうか、見てみた。
長郷 泰輔 (なごう たいすけ)
1849 嘉永2年、誕生。
1868慶應4年、戊辰戦争。長郷は白虎隊組頭古田の養子となり白虎隊に属していたが、自刃の場に間に合わなかった。
そこで、徒歩で榎本武揚らの箱館五稜郭を目ざし苦労の末、函館に到着した。しかし、時すでに遅し。戦は終わっていた。
賊軍側の長郷は厳しい詮議を逃れるためロシア領事館に入った。そして、領事館牧師ニコライの家僕となり、クリスチャンになった。
1870明治3年7月、弁官(太政官の事務局)宛の若松県届
「当県下は贋紙幣の巣窟にして、某元は斗南藩士 主謀をなし、奸民之に附会して或いは雇役 或いは行使などの従犯致候」と述べ、贋金犯人94名を列挙し、行方不明者163名を記す――― 長郷もその一人かも知れない。
当時、贋札事件が続発していた。幕末から明治への移行期の混乱を背景に、理不尽な武力で徹底的に痛めつけられたものの反発と、なによりも言語を絶する窮乏が駆りやったことで・・・・・・(雑司ヶ谷墓地 長郷泰輔の撰文・桜井努より)
1871明治4年、ニコライロシア正教会の大主教ニコライ・カサートキン(Nikolai Kasatkin)の供をして東京に出る。
1872明治5年、ニコライは神田駿河台の台地(旧大久保彦左衛門子孫の屋敷跡)、戸田侯爵邸(江戸の定火消屋敷跡)の土地7,590平米と周辺の旧幕府6人の役宅をロシア公使館の付属地として購入を決定。
ニコライが東京に移る際、長郷泰輔・*岡本鶴蔵らも同行し、駿河台に教会施設を建設した。 長郷は一生の職業をニコライに相談、建築業を勧められた。
岡本鶴蔵:塩飽島出身の大工。主に日本ハリストス正教会の施設建物を施工した。
長郷は横浜にいるフランス人建築技師ジュール・レスカスのもとに1年余り通い、建築技術を学び、のちに建築会社を作り、フランス大使館やロシア大使館、第二回帝国議会議事堂の明治中期二大建築の施工を担当した。
レスカスは当時、関西(生野鉱山)から上京し横浜で建築事務所を始めた。皇居の地盤調査などにもあたるなど新鋭の建築家でもあった。元々土木構造にも強い。後に「THE JAPAN GAZETTE」にも論文を寄せ、地震国日本には強健な建築をと文部大臣に進言している。
1879明治12年、ニコライは大志を抱き再度ロシアに帰国、資金集めに奔走する。
1884明治17年3月、現在の大聖堂が着工した時、ニコライは工事監督に長郷を起用。
長郷の奮闘により7年の歳月、34万円の巨費を投じて建てられたのが、「ニコライ堂」の愛称で親しまれている大聖堂である。
ニコライ堂の建築の設計はロシアの美術家シチュールポフ(M.A.Shchurupov)が担当し、帝国ホテルなどの建築を手がけたコンドル(J.Conder)が修正して完成させた。建築工事は長郷泰輔が請負い、施行は清水組(現清水建設)が担当した。
ニコライの依頼を受けたロシア工科大学教授で建築家、ミハイル・シチュールポフが原設計を行った。お雇い外国人として来日、民間の建築設計事務所を開いていたジョサイア・コンドルが実施設計を担当、総工事監督は長郷泰輔が請負い、施工は清水組(清水建設)が担当、岡本鶴蔵が工事を担当した。
1891明治24年2月、正式名称「日本ハリストス正教会教団東京復活大聖堂」完成。
1904明治37年、日露戦争。ニコライと大聖堂の命運は、日露戦争という荒波に翻弄されたかに見えたが、ニコライはあくまで日本に踏みとどまり続けた。
1911明治44年7月15日、死去。63歳。
――― 日本正教会の小冊子に記載されているとおり、長郷泰輔はニコライの従者となり、東京聖堂から始まり、西欧諸国公使館、帝国議会議事堂の建設に関わった。 経歴の中で最も目を惹いたのは仁寿会社の創立に関わり、また山尾庸三(第三代工部卿)と親交を結んでいること。共に晩年は大きな社会福祉事業を起こした。長郷はこれらの人物と親交があったというのである。三人ともキリスト教に大変に近しい人物であった(『紙碑・東京の中の会津』)。
――― 長郷の建築史上の位置づけは、「工部大学建築家出身の辰野金吾が未だ大いに世に名博せざる間に、長郷早くも先駆をなし、明治建築史上不朽の業績を残した」(同上)
墓は雑司ヶ谷霊園にあり、墓銘は「明治の三筆」と呼ばれる旧彦根藩士、日下部東作の書で、墓碑裏の撰文は日本の天気予報の創始者とされる旧出石藩士、*桜井勉による。
*桜井勉: 明治期キリスト教者・木村熊二の実兄。
参考: 『紙碑・東京の中の会津』牧野登1980日本経済評論社 / ウイキペディア /
https://www.kandagakkai.org/archives/article.php?id=002197&theme=008
KANDAルネッサンス 95号 (2012.06.25)・中西隆紀 / https://www.ndl.go.jp/scenery/column/tokyo/nicorai-do.html
「写真の中の明治・大正」(国会図書館明治写真帳から)
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