鞭牛和尚、宮古街道(旧閉伊街道)・山田線(岩手県)
岩手県の歴史をひもとくと必ずいっていいほど鞭牛和尚が登場する。人のため独力で難工事に取り組んだ僧侶に興味をもったが江戸中期の人で遠く感じていた。ところが、『鉄道車窓絵図・東日本編』(今尾恵介2010JTBパブリッシング)で「鞭牛」を見つけ、その足跡が現代につながった。
鞭牛が独力で難工事にとりくんだその街道は、太平洋岸の宮古から盛岡を結ぶ「山田線」として現代に息づいている。
――― 宮古街道は閉伊(へい)街道とも称し、海岸部の塩や鉄を内陸へ輸送する「鉄の道」 あるいは「塩の道」であった。山中の長く険しい細道を江戸中期の僧侶・牧庵鞭牛(ぼくあんべんぎゅう)が長年にわたって整備、ようやく牛馬を通じるまでに改良したこの街道に沿って敷設されたのが、山田線である。難工事や財政事情で宮古まで到達したのは、着工14年目の1934昭和9年、釜石まで全通したのは1939昭和14年と遅れたが、陸中海岸と県都の盛岡を結んで客貨を運び、沿線にもたらした恩恵は大きいものがあった。(『鉄道車窓絵図』<山田線/釜石線>)
――― 盛岡~宮古間(山田線) 昭和39年6月6日
9時10分発の宮古、釜石行きの気動車に乗る。席はとってくれたが、混んでいた。この線は初めてだが、一番高い峠(区界-くざかい)を越して下りになるまでトンネルが五十いくつ、スウイッチ・バックが二ヶ所ある、全くの山の中の鉄道だ。
しかし、山には植林の杉や落葉松が繁り、潤葉樹も鬱蒼として、新緑が美しかった。至る所、紫の桐の花が咲いていた〔『矢部貞治日記』1975読売新聞社〕。(『日本鉄道旅行歴史地図帳』今尾恵介・原武史2010新潮社)。 生涯を道路改修にささげた僧侶
牧庵 鞭牛 (ぼくあん べんぎゅう)
1710宝永7年、下閉伊郡刈屋村大字和井内の農家に生まれる。岩手県中東部下閉伊郡の中央部を占め、宮古市の西に接する山村、新里村。本姓は佐々木。
1717享保2年、数えの8歳で出家、栗林村(釜石市栗林町)常楽寺に入る。
一説に、牛方をやっていた青年時代に最愛の母の死にあった衝撃からと、さらに33歳で天とも仰ぐ父に死なれ、その無常観が出家の動機ともいわれる。また、牛方の道中、道ばたに休憩していたところ、常楽寺三世・林応和尚が出家の勧誘をしたとの節もある。
1743寛保3年、一山の住職となる。
このころ、ひんぴんと凶作に見舞われ、住民は食料を確保することに追われ、この状態がずっと続いた。しかし、当局は対策を講ずることなく、餓死逃散を座視するばかり。そればかりか、臨時の御用金を徴発し、住民の生活力を弱めたのである。
とくに、閉伊海岸と内陸の米所との間に北上山系が横たわっているため、物資の交流がスムーズにいかなかった。冬期はほとんど途絶し、少しの凶作でも栄耀失調者でた。
鞭牛は幼い時からこうした環境に育ち、民衆救済の発願をこめ、いかに打開すべきか考え続けていた。
1747延享4年、38歳。栗林村、林宗寺の住職となる。
1749寛延2年、閉伊郡やその一帯が凶作に見舞われる。
1750寛延3年、*橋野と大槌との直通路を開削。
――― 鞭牛は青年時代、鉱山師の経験があり、生家にのこる道路工事用具も鉱山用具と同型であることころから、鉱石運搬をしながら峨々とした天険にはばまれた個所の多いことを痛感するうち、やがて道路改修の実践者となっていったのであろうか(『郷土史事典・岩手県』)。
“釜石鉄山の基礎を築いた人、大島高任(岩手県)”
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2011/04/post-8322.html
1755宝暦5年、林宗寺住職を辞任。
普請場所、年号を道供養碑でたどることができる。
[1.宝暦5年3月12日、滝本橋供養右成就所 ~~ 24.安永7年正月15日、橋供養林宗六世、小槌川架橋、大槌-鵜住居間御廟開鑿]
1758宝暦8年、48歳。鞭牛による最初の開削、閉伊街道の開削改修工事始まる。
茂一村。川井村下井川ほか六ヶ所。
とくにこの茂一村腹帯(はらたい)の難所は大淵といって恐れられていた。積荷の人馬は少しの出水にも峠越えを強いられた。
1759宝暦9年、花輪村長沢架橋。川井村・茂一村開削3ヶ所。
1760宝暦10年、以降、4ヶ所の開鑿と架橋。
自らハンマーを振るって道路の改修に専念し、浜街道、宮古-盛岡間の街道改修に大きな業績をあげることとなった。一人でコツコツ道普請をしている僧侶を村人は、はじめのうちは不審に思ったが、しばらしくして素晴らしい道路になるのを見て、協力するようになった。その後は村から要請し鞭牛を監督として、村の事業として道普請を行うようになった。
宝暦の大飢饉に5万数千人の餓死者がでても役人は米一粒も輸入しようとしなかったが、流通活動に役立てようと独力でハンマーをふるった鞭牛和尚。鞭牛の救民の念は住民の感謝をよび、108ヶ所の難所を開削するために7万人の人々の奉仕をよんだ。
鞭牛は村民と一緒にツルハシを振るいながら、「五文のローソクを灯して三文の徳をとれ」と教えたという。公共事業は営利、算盤ではできないことを教えたのである。
1767明和4年、藩主・南部利政より終身年金として15文(米穀にして10石)の扶持米が支給される。
1782天明2年、死去。72歳。
――― 1934昭和9年、盛岡駅より宮古駅まで鉄道が開通。線路は、その区界駅以東は、鞭牛和尚の心血を注いだ道路を縫うて、東方に赴いているのである。これを想ふ時、和尚の偉業は、今日の鉄路にも、無言の暗示を与えた(『郷土資料:修身科教材』1935岩手県教育会盛岡支部会)
参考: 『岩手の先人100人』1992岩手日報社 / 『郷土史事典・岩手県』1978昌平社 / 『日本地名事典』1996三省堂
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