川柳、井上剣花坊 & 浜夢助(山口県・宮城県)
令和はじめての参議院議員選挙の投票日が迫っている。政治に興味が薄いが、それでも投票を欠かしたことがない。また投票率が低いのを心配している。「国会を見るとしぼんでゆく希望」(毎日新聞・仲畑流万能川柳)に共感するご時世。
そんな折しも、選挙の応援演説者にヤジをとばしたら警官が・・・・・・ のニュースにぞっとした。まさか、明治の讒謗律の亡霊がさ迷いでた?この不安、川柳家ならたった一行で表現できそう。
川柳はとても短いのに面白い。そして感心させられる。しかし、内田百閒(明治~昭和の小説家・随筆家)の言うように、「六づかしさうだから、手をださない事にしてゐる」。
ところで、川柳は文学史的には低く見られているようで、参考になるものが少ない。でもまあ、川柳を認める向きはある。
「僕は川柳には門外漢である。が、川柳も叙情詩や叙事詩のやうにいつかフアウストの前を通るであらう」芥川龍之介。
百科事典によると、川柳は江戸時代後期に発生した文芸で、1720享保5年、「おかしみ」主として江戸人士に喜ばれ、柄井(からい)川柳がでてから盛況をきわめた・・・・・・ おかしみは人の意表にでることから強化され、世態の裏面をあばき、人情の機微をたくみに捉えることから、うがちを生じ、うがちに付随して諷刺が生まれる。
明治末期に入って、阪井久良木(くらき)、井上剣花坊(けんかぼう)らが新川柳を唱えた。
井上 剣花坊
1870明治3年、山口県萩市で生まれる。名は孝一。
独学で小学校代用教員・新聞記者となる。
1903明治36年7月、上京。
「川柳」を刊行し、革新川柳を主張する。
日本新聞で井上秋剣の名で編集をしていたが、日露戦争の当時は、戦地から送られてくる戦況の文章を直したりしていたが、川柳投句欄「新題柳樽」が新設され選者となる。ちなみに俳句の選者は正岡子規であった。
選者となった井上は、阪井久良木らとともに川柳運動をおこし狂句(こっけいな俳句)から脱しようと努めた。
1904明治37年、日露戦争。次は井上剣花坊の句。
ソレ見ろと非戦論者は反り身なり (新題柳樽『日本』1903.11.01)
勝ちは勝ちだが日本がと露西亜云ひ (同上 1904.02.14)
旅順陥落
いきなり城門を開き新年御目出たう (同上 1905.01.08)
敵国に捕虜と称する居候 (『川柳』1906年4月号)
1912大正元年8月、東京で『大正川柳』機関雑誌を創刊。
7~8年後に百号を出したころ、妻の井上信子も同人、川柳作家となる。
?年、 昭和期「川柳人」を主宰。門下に、吉川英治、浜夢助など。
1934昭和9年9月11日、死去。享年65。
没後の1935昭和10年、『井上剣花坊句集』発刊。
浜 夢助
1890明治23年4月20日、浜夢助、本名、喜三郎。俳号は真砂。
宮城県仙台市国分町23番地で生まれる。生家は父の代からの鶏卵店「とりこや」。
?年、 立町小学校。
?年、 仙台商業学校を卒業。
1910明治43年、20歳。このころから、*へなぶり、短歌、俳句、川柳、都々逸など何でも手がけたが、次第に川柳、俳句に強い関心を持つようになった。川柳は井上剣花坊に師事。
*へなぶり: 「夷曲」ひなぶりをもじっていう。狂歌の一つ。明治37~38年頃の流行。当時の流行語・俗語などを読み込むのが特色。次は、浜夢助の句。
四畳半羽化登仙が現実にかへる寝顔へ陽のまざとあり
焼鳥屋国訛りからだんだんに話せばながい事ながらかな
1912大正元年、井上剣花坊の『大正川柳』に参加。
1917大正6年、23歳。盟友、岩井東華とともに「仙台青吟社」を起こし、*雑俳と俳句の普及発展に尽くす。宮城川柳界の草分け的存在となる。
*雑俳: 俳諧の前句づけをはじめ冠付(かむりづけ)・沓付(くつづけ)・*折句・川柳など遊戯的な俳諧文学の総称。
*折句: ①和歌で、各句のはじめに物の名五文字を一字ずつ折り込むもの。
②俳諧で五七五各句の上に物の名三文字を折り込むもの。
たとえば、「おふだ」を「おもしろや ふたり漕ぎゆく たからぶね」と折り込む類。
1929昭和4年~1943昭和18年、*河北新報社が「河北くらぶ」発刊、その川柳壇選者として迎えられる。
“明治・大正、屈指の地方紙(河北新報)を築き上げた一力健治郞(宮城県)”
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2014/06/post-844d.html
1937昭和12年、川柳『北斗』を創刊、主宰。
1942昭和16年12月8日、太平洋戦争勃発。
1944昭和19年、川柳誌の休刊、廃刊相次ぐ。
1945昭和20年8月15日、終戦。
1946昭和21年、『夕刊とうほく』、引き続き『河北新報』の選者となり死去するまで担当。
1947昭和22年、川柳『北斗』廃刊。
12月、『川柳宮城野』を創刊、主宰。
長く東北の川柳界リーダー的存在として活躍。多くの川柳作家を育てた。その一人に、高橋放浪児がいる(北上市公式HP)。その縁で、岩手銀行・北上支店前に夢助の句碑が建てられている。
人の和の永遠にしてまどかな灯
1950昭和25年、還暦を記念して発行された句集「雪国」より
雪国に生まれ無口に馴らされる (川柳碑、青葉区桜ヶ岡公園/西公園)
1960昭和35年10月30日、死去。享年70。
新寺小路大林寺(仙台市若林区新寺 4-7-6)に葬られる。
人の世の掟きびしき夏羽織
膝に置く篤農という大きな手
人の和の 永遠にして まどかな灯 (岩手銀行北上支店前句碑)
参考: 『オール川柳年間’97』葉文館出版)/ 『宮城縣史29』1986宮城県 / 『世界大百科事典』1972平凡社 / 『日本人名辞典』1993三省堂 / 『新興川柳運動の光芒』坂元幸四郎 / 1986朝日イブニングニュース社 / 戦争×文学『日清日露の戦争』2011集英社
| 固定リンク
コメント