不忍池(しのばずのいけ)をめぐって(東京上野公園)
昨年から「コラムを書いてみよう」講座に通っている。1サイクル3ヶ月と短いので試しにちょっとが、愉しく丸1年。褒めて育てる講師の評に釣られ、せっせと課題(1000字)をこなしている。先日の課題は「分かれ目」。
今年、元号が平成から令和になったこともあり、自分は「歴史の分かれ目」について書いてみた。そのなかで新政府軍と彰義隊の上野戦争などふれた。次は講評の一部、
――― 上野戦争といえば、政府軍は加賀屋敷のあった今の東大本郷キャンパスの丘上から砲弾を撃ち込みました。砲弾が次々に飛び越えていった不忍池がさだめし あの時代の“分かれ目”のような気がします・・・・・・
7月のはじめ、絵の好きな友人と上野駅で待ち合わせ。うっかりしてたが月曜日、どこも休館で上野公園散策となった。
上野公園の西半部、上野台(忍ヶ丘しのぶがおか)と本郷台を分ける低地の不忍池までくると、大きな蓮の葉が池をおおっていた。ところどころに濃いピンクの花が顔をだし、いい眺め。目をあげると花の向こうに上野広小路のビル。
連花とビルを交互に眺め、新政府軍の砲弾はどっちから飛んできたのだろう。
想像を巡らすも、地図が読めない方向音痴には見当がつかない。
<不忍池、水面にうつる江戸から東京(近藤剛司・下町風俗資料館学芸員)>
1873明治6年、上野の山は公園として解放され、続く8年7月に不忍池が編入。公園となった不忍池では数々の博覧会が催された。
数多くの品物を陳列する館が池の周りに並び、博覧車やウォターシュート、グライダーなどが披露された。
1923大正12年9月12日、関東大震災が発生。住まいを失った人々を救援するため各地にバラックが建てられた。上野公園に作られたものは最大規模のもので、不忍池の周りのバラックでは多くの人々が被災生活をおくった(『うえのno.716』2018上野のれん会)。
実家の菩提寺は谷中にあり、墓参と上野浅草周辺で食事がセットだったこともあり、不忍池にも親しみがある。
不忍池で明治期に競馬が行われていたとか、太平洋戦争中・戦後の一時期、食糧難のため水田に転用したなど何となく知っていた。しかし、「不忍池を野球場に」という話があったのは全く知らなかった。
ちなみに、後楽園球場も戦争中、
――― 球場の中はすべて畑になっており、大根、里芋、トウモロコシなどの大きな葉が風に揺れていた。畑のまわりに並べられた野ざらしの機関銃や高射砲は、占領軍に引き渡すために集められた旧日本軍の兵器だった(『巨魁伝』正力松太郎と影武者たちの一世紀、佐野眞一1994文藝春秋)。
1943昭和18年、学徒兵が入営(陸軍)・入団(海軍)。神宮外苑など各地で壮行会。
1944昭和19年、日本野球連盟を日本野球報国会と改称。
1945昭和20年8月6日、広島に原爆投下。8月9日、長崎に原爆投下。
8月15日、終戦の詔勅放送。11月23日、戦後初のプロ野球、神宮で開催。
1946昭和21年、戦後、食料事情が厳しいにも拘わらず観客は200万人、翌々年には500万人となり「日本人は三度の飯より野球が好き」を裏付けた。
1947昭和22年、日本国憲法施行。新リーグ「国民野球連盟」が発足(翌年解散)。三原脩、巨人軍総監督に就任。
1949昭和24年7月、正力松太郎から権限を委譲されていた市岡忠男が、上野・不忍池の球場計画は地元住民の反対で頓挫。
―――この間の詳しい経緯は、前出『巨魁伝』第十章「復権と球場」に詳しい。
巨人ファンだが正直、正力松太郎に興味がない。しかし、不忍池球場の話を知りたく『巨魁伝』を手にして、必要部分を引用するだけでなく読んでみようと思う。好ましいものを読んだり見たりは楽しい。でも、歴史をかじると、向こう側を知るのも大切かなと。
不忍池
東京都台東区上野公園内の池。面積、0.15k㎡。
古くは海が入り込み、潟湖として残ったもの。大昔に東京湾の入江が一部取り残されて池の形になり、15世紀以来今の名で呼ばれるようになったと言われ、徳川家康の「天正日記」にも不忍池の洪水のさまが記されている。
江戸城鎮護のため寛永寺を建立。琵琶湖にぼして低湿地帯を整備。中央に弁天島を起き、ハスの名所とした。
のち、北部の3分の1を上野動物園の水上動物園として開設。ボート池・遊歩道などを整備。冬はカモなど渡り鳥が飛来する(『日本地名事典』1996三省堂)。
過去の催し、岩手県。
<いわて復興だより第2号> 2011平成23年7月20日
~がんばろう !岩手、つながろう !岩手~
7月16日(土) ~ 24日(日)うえの夏まつり
~復興支援物産展~不忍池畔ほか東北の物産展が行われます。また16日は、JR上野駅・、水上音楽堂・上野中央通で東北の祭り演舞があります。17日(日)夜は不忍池で「とうろう流し」を実施予定です。
<岩手県立博物館だより>
岩手県立博物館、岩手県出版 2015-03-01
1 明治時代から大正時代へ
■ 近代の錦絵
周延画「上野不忍池競馬図」は、明治17年東京上野不忍池に新設された不忍池競馬の様子を描いた作品です。明治18年と19年にこの競馬場で開催された競馬において、南部馬最後の名馬と呼ばれた「盛号」が連続優勝しました。
日本の競馬史に輝かしい名を残した「盛号」との関連で貴重な資料です。「盛号」の骨格は昭和55年に復元され、岩手県立盛岡農業高校に保存されています。
江戸期の技法を継承し、明治期にも多くの錦絵が刷られました。岩手県立博物館は、近年評価が高まっている周ちかのぶ延の作品をはじめ、養蚕や馬産などの明治期の岩手の産業をつたえる錦絵などを収蔵しています。以下略
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