釜石線はオメガループ線で仙人峠を越える(岩手県)
・・・・・・入学したばかりの大学の文学部を休学し、遠野から更に東の海岸へ汽車で1時間ほどの先の、釜石市という港町に住んでいた。学資が続かなくなったのと、学校の勉強がつまらないという二つの理由から休学することに・・・・・・ 勤め口が見つかった。
港町から歩いて2時間ばかり遠野方角へ逆もどりした山の中にその夏、新設された国立療養所が職員を募集・・・・・・ 考えていたよりもはるかに重労働だった。・・・・・・ 療養所の背後の、山の枯木枯枝を手斧で切って、冬期の、事務所のストーブにくべる薪を用意するのが、秋の間のぼくの仕事だったのである。(井上ひさし『新釈遠野物語』1980新潮文庫)
梅雨が明けたら猛暑。暑いとひたすら読書に明け暮れた夏休みを思い出す。若いころは文学好きだったが、「井上ひさし」に出会って読書の幅、世界がひろがった。面白おかしく次つぎたのしむうち、表現は軽いが実は深いことに気づいた。これって、すごく難しいのに、「むずかしいことをやさしく やさしいことをふかく ふかいことをおもしろく」表現している。
井上ひさしは山形県の出身だが、前述の釜石、著作に宮沢賢治や石川啄木がよく登場するので岩手県人の気がしてしまう。まあ、東北というくくりでいいのかも知れない。
それはともかく冒頭の民話のふるさと遠野は、宮沢賢治の銀河鉄道を彷彿させる岩手軽便鉄道(JR釜石線の前身)の駅である。
“釜石鉱山鉄道 と 岩手軽便鉄道”
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2015/09/post-bcd8.html
――― 電車の先頭車両、運転手さんの真後ろで前方を見つめる・・・・・・ 何が面白いかといえば、右に左にカーブを切り、勾配を登り降りし、トンネルを抜けて鉄橋を渡り、大きな駅ではいくつも枝分かれしたポイントの中から決まった進路に入っていく・・・・・・ そもそもなぜそのルートに線路を敷いたのか。
――― 重量のある列車を安全に通す線路は・・・・・・ 勾配も曲線も、道路よりずっと緩く設定する必要がある。列車が安定して走れる勾配と曲線で線路を敷くことは、山がちで地形条件の厳しい日本にあっては、常にルート選定の責任者を悩ませてきた(『線路を楽しむ鉄道学』)
<JR釜石線はオメガループ線で仙人峠を越える>
この区間は大変な勾配である。ちなみに勾配は千分比で表す。
道路の急坂10%という標識があれば、水平距離に対して垂直距離がどれだけの割合であるかを示す。100m行って10mの高度差を生じる勾配で、鉄道の場合はもっと緩いため千分比(パーミル・‰)で表す。
仙人: 岩手県中東部の峠名など。
仙人峠: 遠野・釜石2市の境、国道283号(釜石街道)が越える峠。峠下を仙人トンネルが貫く。北側に釜石鉱山がある。
“岩手県の近代産業の先駆、釜石鉱山田中製鉄所・横山久太郎”
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2019/05/post-b2a664.html
仙人トンネル: 長さ10.2km(うちトンネル2528m)。
1959昭和34年開通の道路トンネル。有料トンネルであったが、のち無料開放。峠下を抜け、国道283号(釜石街道)の交通を便利にした。並走する釜石線は、南に迂回し、土倉トンネルを抜ける。
県内に同名トンメル: 北上線和賀仙人~陸中大石にある単線型鉄道トンネル。1961昭和36年開業。
1880明治13年、釜石と大橋の間に釜石鉱山鉄道が開通。
1890明治23年、東北本線が盛岡まで開通。当時、上野~盛岡間の所要時間は、17時間55分であった。
1912大正1年、岩手軽便鉄道は南満州鉄道・安奉軽便鉄道の一部の払い下げを受け、工事に着手。
1913大正2年10月、花巻(初代)~土沢間が開通。
1914大正3年、仙人峠駅まで開通。
1915大正4年、旧・花巻駅まで開通。
まだ、山田線(盛岡~宮古~釜石)は影も形もなかった。海辺に至るまでの北上山地は深く険しかったのである。
1929昭和4年、鉄道省発行『日本案内記』には、仙人峠駅から大橋駅までは駕篭および馬の便があると記される。
1936昭和11年8月、不況にともなう営業不振から、索道とともに買収されて国鉄釜石線となった(『新・鉄道廃線跡を歩く』)。
1944昭和19年10月の戦争末期。釜石陸中大橋間を、釜石東線が貨物線として開通。国家存亡の焦りからか「鉄鉱石を少しでも多く兵器に!」不足する労働力は動員学徒でまかなった。
――― 釜石線が全通したのは意外に新しい。釜石は鉄の町として明治日本の近代化を支えてきた。にもかかわらず、東北本線の花巻から釜石まで開通したのは戦後。1950昭和25年、それだけ仙人峠が難所であった。
仙人峠駅は標高約560m、大橋が250mほどで、近いが標高差がおよそ300mあり、トンネルでまっすぐ進んだら80‰を越える計算となり、普通の鉄道では無理。
この峠を越える方法として、岩手軽便鉄道が1913大正2年に索道(空中ケーブル)を架けた。荷物はこの索道で運び、人は残念ながら、つづら折りの山道を約3時間歩いて越えた(『地形図でたどる鉄道史』)。
<花巻~遠野>
花巻駅を出発した列車は、やがて左にカーブして「さいわい橋」で切通を渡り、鳥谷ヶ崎駅に到着。鳥谷ヶ崎神社の脇を抜けた線路跡は、賢治の作品『イギリス海岸』の中にも登場する瀬川の鉄橋を渡っていたが、現在は鉄橋のあとはもちろん築堤もなくなり、賢治が『銀河鉄道の夜』のモチーフとしたであろう風景は、完全に姿を消している(『新・鉄道廃線跡を歩く』)
<遠野~仙人峠>
遠野市街地の中は、住宅が建って線路跡をたどるのは難しいが、早瀬川の鉄橋の脇に、岩手軽便の橋台や橋脚の土台部分を見ることができる・・・・・・ 仙人峠駅跡は国道の千人トンネル入口付近の空き地にあったと思われる(同上)。
参考: 『線路を楽しむ鉄道学』今尾恵介1995講談社 / 『地形図でたどる鉄道史』今尾恵介2000JTB) / 『新・鉄道廃線跡を歩くⅠ』(今尾恵介2010JTBパブリッシング) / 『日本地名事典』1996三省堂
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