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2019年8月24日 (土)

「丹下左膳」 林不忘/牧逸馬(新潟県、北海道・函館)

 「箱館・函館」の参考に何冊か借りた中で、須藤隆仙という人の『箱館開港物語』『箱館の1000年』『函館の歴史』など、込み入った事歴が解りやすく記してあり勉強になった。
   須藤隆仙: 1929昭和4年、北海道生まれ。大正大学卒。函館市称名寺住職・南北海道史研究会会長などを務め、著者多数。
 その一冊に多方面の人名が載っていて、文学関係に作者・林不忘(はやし ふぼう)があって、子どものころみた映画『丹下左膳』を思い出した。
 チャンバラは好きじゃないけど、昔は二本立てだったからついでに観たのだが、片目・片腕ながら強い眼差し、赤い蹴出しが見える派手な着流しの主人公は目に焼き付いている。
 映画が大衆娯楽の王様だった昭和期、正月の映画館は立ち見客もでるほど混雑した。こういう話をすると、孫どころかその親まで、筆者は遠い昔人間にみえる。
 さて、あの丹下左膳という独特のキャラクターを生み出した林不忘を事典でひくと、別に牧逸馬(まき いつま)谷譲次という筆名があり、それぞれ傾向の異なる作品があり、興味がわいた。

         牧逸馬林不忘谷譲次

 1900明治33年1月17日、新潟県佐渡郡相川町で生まれる。本名。長谷川海太郎。
     生後間もなく両親に伴われて北海道へ移住。
     父・長谷川淑夫は大川周明らとも交渉のある新聞人。のちに函館新聞社長兼主筆をつとめた。

   大川周明: 国家主義運動の指導者。軍部の中堅将校に国家改造を説き、三月事件、十月事件に参画。
   函館新聞: 函館支庁の印刷機を借りて印刷業をしていた伊藤鋳之助が開拓使に新聞発行を願い出、明治11年『函館新聞』刊行。同31年、『函館毎日新聞』と改題。

   ?年、 函館中学3年、学内でストライキを首謀し放校処分となり中退。

 1918大正7年、単身渡米。数年間アメリカ各地を放浪。その間、オハイオ・ノウザン大学などで学ぶ。

 1924大正13年、和子夫人とともに帰国。
     まもなく体験を活かした「メリケン=ジャップ」ものを執筆。
 1925大正14年1月、『新青年』に谷譲次の筆名で「ヤング東郷」を執筆。
    奔放斬新なタッチでいくつかの短編を公表。
    『探偵文芸』に「釘抜藤吉」捕り物覚書の第一編、「の、の字の刀痕」を掲載。
   以後、時代物には林不忘の筆名を用いた。「釘抜藤吉」は半七につづく捕物帖の先駆で、翻訳が多い。かたわら、谷譲次の筆名で『新青年』ほかに、実話・雑文を発表。
   ミステリー物は牧逸馬の名で執筆した。アメリカ放浪時代の体験を活かした「テキサス無宿」を執筆。
    また、『東京日日新聞』に「大岡政談」を連載。
 1926大正15年、探偵名作叢書『都会冒険』牧逸馬・聚閣角。http://kindai.ndl.go.jp/ で読める。
                     
 1927昭和2年、「モダン・デカメロン」。『女性』に「水晶の座」を連載。
 1928昭和3年春から翌4年夏、中央公論社特派員として海外を旅行。それを踊る地平線にまとめた。
    『婦人公論』に「第七の天」探偵小説。
 1929昭和4~8年、「世界怪奇実話」

 1930昭和5年10月~8年10月、毎日新聞の客員として創作にあたった。
    翻訳は「バット・ガール」その他あり、文字どおり筆による一人三役を実践。
    同年、『東京日日新聞』に長編小説「この太陽」を連載。家庭小説の分野で話題をよび、その名を広く知られるようになった。

   『この太陽
      大阪毎日新聞、東京日日新聞に連載。
    暁子と元雄は親の決めた許婚同士だったが、ヒロイン暁子の家が没落し周囲の反対にあい、強引に引き裂かれ、暁子は失恋する。失恋から社会性に目ざめた暁子は、いろいろな悩みをくぐりぬけ、最後には元雄の友人と結ばれる。

    「新版大岡政談」(昭和2)以来不動の地位を得、マスコミ・文壇の寵児となった。
ほかに「大陸」など。時代小説の分野では、隻眼隻手のニヒルな剣士を創造「丹下左膳」を発表。

   『丹下左膳
      昭和9年まで、大阪毎日新聞、東京日日新聞、毎日新聞退社後は、読売新聞に連載。
    この痛快新講談は、<性は丹下、名は左膳>の名セリフで知られた大河内伝次郎の映画で一世を風靡、さらに日光造営の任をかけた柳生家の興亡ををかけ、埋蔵金の所在をしめす絵図面をひめたこけ猿の壷をめぐって波瀾に富んだ展開を示し・・・・・・

 1934昭和9年、「新巌窟王」
    流行児となり探偵・実話・家庭・時代小説と大衆文学の各分野でエネルギッシュな活躍ぶりを示した。

 1935昭和10年6月29日、鎌倉の自宅で心臓麻痺、流星のごとく去った。享年35。

  急逝のため、未完に終わった作品も多い。生前『一人三人全集』新潮社から刊行。
 文壇に交友が少なく、一部に傲岸不遜な態度が噂されたが、それは自意識の強い彼の潔癖な性格が誤り伝えられたもので、その奔放自在な筆力は戦後のマスコミ作家をしのぐものがある(『現代日本文学大事典』)。

   参考:『現代日本文学大事典』1965明治書院 / 『日本人名辞典』1993三省堂

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