♪旅愁・故郷の廃家、犬童球溪(いんどう きゅうけい)(熊本)
1945昭和20年8月6日、広島に原爆投下。8月9日、長崎に原爆投下。8月15日、天皇「終戦」の詔勅放送。それから74年、令和元年の夏は猛暑の日々である。
お盆の季節、帰郷された方も多いでしょう。帰る故郷がある人はいいなあ。でも、近ごろ空き家問題とかあるなあとか、とりとめもないことを考えるうち、なぜか ♪故郷 のメロディーが口をついて出た。作詞の犬童球溪は熊本の人。
そこで、最近のマイブーム鉄道から熊本、ついで犬童球溪の経歴をみることにした。
<地理教育鉄道唱歌>
第一集(東海道編)・第二集(山陽・九州編)・第三集(奥州・磐城編)・第4集(信越・北陸編)・第五集(関西・参宮・南海編)、北海道唱歌(南の巻・北の巻)。
第五集まで1900明治33年の発行というから驚く。すごいベストセラーである。第二集に、明治唱歌中指折りの名曲、♪旅愁の作詞者・犬童球溪ゆかりの地がある。
50番
かの西南の戦争に その名ひびきし田原坂 見にゆく人は木葉より おりて道きけ里人に
51番
眠る間もなく熊本の 街に着きたり我汽車は 九州一の大都会 人口五万四千あり
52番
熊本城は西南の 役に名を得し無類の地 細川氏のかたみとて 今はおかるる*六師団
*六師団: “第六師団の街だった熊本(熊本県)”
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2017/10/post-f0a2.html
57番
南は球磨の川の水 矢よりも早くながれたり 西は天草洋の海 雲かとみゆる山もなし
犬童 球溪 (いんどう きゅうけい)
1879明治12年3月20日、熊本県球磨郡藍田村西間下245(人吉市)に生まれる。
中流の農家の次男に生まれる。本名、信蔵。
「犬童」(いんどう)は熊本県にある苗字で、「球溪」は、郷土の球磨川渓谷にちなんだもの。
兄の儀平は若くして山田小学校の校長となり、球溪の力になっていた。
1886明治19年4月、高等球磨小学校入学
1895明治28年4月、16歳。渡小学校代用教員。
1897明治30年4月、兄の勧めもあって熊本師範学校入学。34年、卒業、22歳。
1901明治34年4月、師範学校卒業。宇土郡網田尋常小学校訓導。
オルガンを上手に弾いて教えていたが、たまたまそれを見ていた*視学がその才能をみぬいて音楽学校に入るよう勧めてくれた。
*視学(官): 1885明治18年、学事視察を主とする行政事務を司る機関として文部省および地方官庁に設置。戦後、地方では指導主事がおかれた。
1902明治35年、東京音楽学校甲種師範科入学。9月、兄儀平死去。
球溪には県から金5円が支給され、不足の分を兄が補う予定だった。しかし、兄が37歳の働き盛りに死去してしまった。そのため、球溪は写譜や翻訳のアルバイトをして苦学生となったが、やがてこの苦労が実る。
東京音楽学校甲種師範学校を卒業後、作詞を試みるようになった。
1905明治38年4月、兵庫県立柏原中学校、教諭心得。12月、退職。
――― 音楽学校を卒業し、胸を膨らませて赴任した球溪を待っていたのは、生意気な学生たちが西洋音楽排斥運動を起こし。球溪は追われるようにしてその地をさったのだという(『唱歌のふるさと 旅愁』鮎川哲也)。
1906明治39年1月、新潟県立新潟高等女学校(新潟中央高校の前身)教諭。
――― 球溪はここで心休まる日々を送ったのだろう。それが、《旅愁》ほか他の傑作を生むことになったのではあるまいか。しかし、《旅愁》にせよ《故郷の廃家》にせよ、望郷の思いを色濃くうたっているところから想像するならば、雪深い新潟にいてしきりに思うのは、南国人吉のことであったろう。球溪がわずか二年でこの地を去っているのは、夢にもみ郷里の家路だったのだ(同書)。以下、歌詞は『中等教育唱歌集』より。
♪《 旅愁 》 作詞・犬童球溪、作曲・オードウェイ
(歌碑が眼下に球磨川が流れる眺めの美しい人吉城趾に)
一 更(ふ)けゆく秋の夜 旅の空の わびしき思いに ひとりなやむ
恋しやふるさと 懐かし父母 夢路にたどるは 故郷(さと)の家路
更けゆく秋の夜 旅の空の わびしき思いに ひとりなやむ
二 窓うつ嵐に 夢もやぶれ はるけき彼方に こころ運ぶ
恋しやふるさと 懐かし父母 思いに浮かぶは 杜(もり)の木ずえ
窓うつ嵐に 夢もやぶれ はるけき彼方に、心運ぶ(のち、心迷う)
作曲オードウェイの曲を球溪がよく知って歌詞を考えたものと思われ、曲の赴きにぴったりとあてはまっている・・・・・・ 林芙美子『放浪記』の中に出てきて、林の好きだった曲である(『日本の唱歌・明治編』)
*****
♪《 故郷の廃家 》 作詞・犬童球溪、作曲・ヘイス
(内容と歌曲との調和は見事で、それほど知られていない音楽家の作品から、このようなものを見いだして作詞した犬童の手腕は見上げたものである。人吉に歌碑)
一 幾年(いくとせ)ふるさと 来てみれば 咲く花鳴く鳥 そよぐ風
門辺(かどべ)の小川の ささやきも なれにし昔に 変わらねど
あれたる我家(わがいえ)に 住む人絶えてなく
二 昔を語るか そよぐ風 昔をうつすか 澄める水
朝夕かたみに 手をとりて 遊びし友人(ともびと) いまいずこ
さびしき故郷(ふるさと)や さびしき我家(わがいえ)や
1907明治40年2月、27歳。西尾み乃と結婚。
1908明治41年、熊本県立高等女学校(第一高校の前身)教諭。
この間、《 秋夜懐友 》作詞、曲・ライトイン。
――― 《旅愁》ほどに歌われなかったのは「手慣れの小琴(おごと)、共にかき撫で~」という歌詞が少し難しすぎたせいだろう(同書)。
1918大正7年、球磨郡立実科高等女学校教授方。
1923大正12年、球磨実科女学校、県立となり人吉高等女学校へ。
新家屋(現・犬童球溪記念館)建築。
1935昭和10年3月、退職。56歳。以後、藍田村村会議員など。
1936昭和11年10月、『球溪歌集』『四季』発行。
1937昭和12年、「故滝廉太郎先生を懐ふ」放送。
“滝廉太郎が生きた明治の24年間(東京・大分)”
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2019/06/post-8fe340.html
1943昭和18年10月19日。死去。64歳。
――― 晩年の球溪氏は座骨神経痛、神経衰弱を病んで病床に臥すようになった。その死は多くの人吉人士に悼まれたという。
未亡人の思い出話によると、まじめ一方の人間で、家のなかでは冗談一ついわなかったそう・・・・・・ 球溪氏が無口なためか子どもがなじまなくて、末のお嬢さんが「父さんのおれば寂びしかなあ」(お父さんがいるとかえってさびしいね)といったので皆が大笑いした・・・・・・ 犬童氏の苦笑した顔が想像される(同書)。
※ 熊本出身の尺八家、吉田晴風の上京を援助し、箏曲の宮城道雄を中央に活躍させる力になった。
参考: 犬童球溪記念館 http://kyukei.jp/wordpress/?page_id=44 / 『唱歌のふるさと 旅愁』鮎川哲也1993音楽之友社 / 『日本の唱歌・明治編』金田一春彦・安西愛子1977講談社 / 『鉄道唱歌と地図でたどる あの駅この駅』今尾恵介2016朝日新聞
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