箱館の山東一郎・函館の山東直砥(北海道・和歌山県)
うだるような猛暑うんざりだが、終戦74年「終戦の日」全国戦没者追悼式のニュースに文句を引っ込める。自由でしたいことができる日々はありがたい。
暑さにめげてサボるつもりのバランスボール教室に行くことにした。現役世代と運動すれば若返りそう。それに加えて合間のおしゃべりもいい。先日は生まれも育ちも北海道の彼女から、ところ変わればの話を聞いた。
この夏、石狩の実家に帰りあまりの暑さに「エアコン欲しい!」と叫んだとか。今どき、エアコンは珍しくないから、なんで? 聞けば、北海道では暑い日があってもせいぜい一週間か十日、例年なら一寸の我慢でエアコン無しで済むという。
ところが温暖化のせいか北海道も猛暑続き、仕方なく取り付けを頼んだ。ところが、注文殺到で電器店は大忙し。「エアコンがつく頃には涼しくなってるかも」ですって。
ところで、広い北海道だが『明治の一郎 山東直砥』を通じ、函館に親近感がある。
箱館奉行所の役人宅に住み、宣教師ニコライにロシア語を習った山東一郎。維新後、新政府の役人として箱館府に赴任する。まさに幕末明治を体験という次第である。
1854安政元年、幕府ペリーと日米和親条約締結。下田・箱館2港を開くこととする。
4月、ペリー艦隊、箱館入港。8月、ロシア・プチャーチン、箱館来航。
1859安政6年、箱館開港。
1866慶應2年、杉浦誠(勝静)、箱館奉行となる。
山東一郎、松本良順の紹介で、箱館奉行所支配調役・酒井弥次右衛門の従者として箱館に連れていってもらう。さらに、奉行所の役宅に寄住まわせてもらう。
<山東一郎とロシア人宣教師ニコライ>
山東は箱館ロシア領事館付き司祭、ギリシャ正教宣教師・ニコライ(イワン・デミトロヴィチ・カサーツキン)にロシア語を習い始めた。
ニコライは1861文久元年に来日、八年間日本語を学び、古事記・大日本史・小説の類まで読んだ。そして書籍の欄外にロシア語で批評を書きみ論語や孟子も理解したという。
一郎はニコライにロシア語を習ってはじめて「アルファベット二十七文字は母音のほかは単独で音を持たない。子音の字は母音にくっついて初めて発音できる」のを知る。
法則が理解できれば勉強法は自ずと見えてくる。ロシアをその目で見たい一郎にとり、ロシア語習得は必須であったから真剣そのもので飲み込みもはやかった。
ある日、ニコライが一郎を夕方の散歩に連れ出した。ニコライは箱館市内を散歩中、白刃に見舞われたことがあるが外出をやめようとしなかった。その日、ニコライは一郎に伝道の糸口を開くかのように話し始めた。
キリスト教伝道は禁じられていたが、一郎は黙ってニコライと肩を並べニコライの話に耳を傾けるふりをしていた。それと察したニコライは説くのをやめた。
ところが、その時は気付かなかったが、ニコライの説教は一郎の胸の奥深く届いていたのである。三十年後のある日ある時、一郎の胸にニコライの言葉が甦る。
その話はひとまず置いて、酒井弥治右衛門の住居に先客がいた。関貞吉といい、ニコライに日本語を教え大日本史などを講じていた。
ほかにもう一人、ロシア領事ビウタウに1ヶ月5両の約束で日本語を教える十時三郎がいた。これに、日本人ではじめて樺太を一周した岡本監輔が加わり、北辺の守り、蝦夷地の情勢について毎夜、語りあかす。
1867慶應3年、徳川慶喜、大政奉還。
<最後の箱館奉行・杉浦誠(勝静)>
西郷隆盛と勝海舟が会談、無血開城され、大総督有栖川熾仁親王が参謀らを従え入城した。この知らせは、遙か離れた蝦夷地の箱館奉行所にも届けられ、すぐさま江戸へ帰還するよう命令があった。幕府が瓦解、赴任していた役人は先を争い江戸に帰るが、杉浦はあえて残留することにした。
自分達が突然去ったら、箱館市中は混乱をきわめ治安が悪化するのは目に見える。これを機にロシアが北蝦夷地に侵攻する危険もある。新政府の役人が来るまで引き揚げないと決めたのである。立派な役人の大英断で部下にたいしても、新政府は広大な蝦夷地を支配するため、引き続き雇用してくれるだろうと落ち着かせ、それでも江戸へ去るという者には船の手配をしてやった。
1868明治元年、新政府、箱館裁判所(行政府)をおき、清水谷公考(しみずだに きんなる)を総督にする。
函館在住の各国領事に外交事務一切は箱館裁判所が管轄し、運上所のことはこれまで通りと宣言。各部署の職掌と担当官を次のようにきめた。民政方・井上石見、文武方・堀真五郎、生産方・山東一郎、外国方・小野淳輔(高松太郎・坂本龍馬の甥)、勘定方・宇野監物(巌玄冥)。
4月、箱館裁判所を箱館府と改め、清水谷を府知事とする。
5月、箱館奉行より事務引継ぎ、完了。
<杉浦誠・酒井弥治右衛門>
最後の箱館奉行・杉浦兵庫守、箱館裁判所に熨斗目麻上下で出頭。清水谷総督は赤地錦直衣引、立烏帽子姿で表座一ノ間に座し、二ノ間に羽織袴姿の総督府役人が居ならび、一時間ほどで儀式は終わる。
杉浦は三の間に通され、判事・井上石見以下、権判事・岡本監輔、巌玄冥、山東一郎、小野淳輔(高松太郎、坂本龍馬の甥)、堀真五郎に会い引渡しは無事終わる。
杉浦は部下の旧幕臣の行く末を保証した安堵状を受けとって五稜郭を去り、正式に政権交代がなされた。
新政府の役人は箱館府を開庁したが、細かい事務引継ぎは簡単に片付かず、杉浦はしばらく箱館に残ることにした。
翌日、旧箱館奉行所支配調役・酒井弥治右衛門ら三人が杉浦に会い、留まるか江戸に帰るか去就について相談した。この酒井弥次右衛門こそ、一郎を箱館に連れてきてくれた幕府役人あるが今や立場が逆転、情けは人の為ならずだ。新政府の役人となった山東と良いは縁だが、酒井は出仕する気はなかった。ただ、事務引継ぎに関しては上司の杉浦に協力した。
5月27日夕、酒井が杉浦に山東と十時三郎から聞いた内輪話「奥羽の形勢がただならず大波乱」を告げ、紛争が箱館に及べば、無事の引渡しが無駄になると心配した。ともあれ、杉浦は出来る限り仕事を果たし、江戸へ帰る準備をはじめた。
5月30日夜、小野と山東が杉浦を本陣に招いて送別の馳走をした。杉浦の日記によると、夕方七時過ぎから深夜二時過ぎまで話し込んだようである。
8月、榎本武揚ら旧幕府の艦船をひきいて脱走北上。10月、五稜郭を占拠。
1869明治2年5月、榎本武揚以下、全員降伏。
6月、版籍奉還。7月、官制改革に伴い開拓使設置。
8月、蝦夷を北海道と改める。
松浦武四郎(弘)の案により蝦夷地は北海道と改称され、箱館は函館、北蝦夷は樺太となる。
<松浦武四郎>
開拓使長官・東久世以下、開拓使の官僚たちが着任。清水谷公考はじめ山東ら函館府の役人は辞任・辞職させられる。山東ら納得しない者もあったが、松浦武四郎はひき続き開拓使で働く。
ところが、松浦は持ち前の正義感を発揮したため辞職に追い込まれる。
松前藩時代から続く制度で場所請負人は、場所と称する地区に分けられた場所内の漁業権を掌握、行政面にもしばしば口を入れて漁民を支配していた。そればかりでなく生産から流通まで実権を独占、その勢力は強大であった。松浦はその現状を案じ、蝦夷地請負商人による弊害を打破しようとしたのである。
しかし、特権を守ってきた商人の失脚工作にあい、上司にも商人らに同調する動きがあった。怒った松浦は、弾劾書ともとれる辞表を提出し開拓使を辞め、北海道を去る。
探検家で志士、文人でもあった松浦は、筆まめなうえ詩歌、絵画、篆刻をよくし、骨董にも目があった。見るべき著述が多く、その生涯は興味深い。
辞職後は古器、書冊を友として、ときどき旅にでかける静かな生活であった。それでも、伊達氏の北海道開拓、本願寺の道路開削の相談に応じるなど北地開拓の志は生涯消えることはなかった。
ちなみに松浦の出身地は、伊勢国一志郡須川村。
10月、中川嘉兵衛、五稜郭で製氷に成功、翌年「函館氷」として横浜に移出。
<中川嘉兵衛>
早くから富士の裾野の雪や、諏訪湖、函館の天然氷を伐りだし外国船で運んで発売したが、どれも途中で溶けて大損。しかし失敗の連続に挫けず工夫を重ね、再び開拓使に出向き箱館五稜郭外堀で製氷する許可を得る。
そのうえでアメリカ人医師シメンツから天然氷の採取貯蔵法を学んで、五稜郭で実行して成功。以来、アメリカから氷採取器械を購入し濠内の掃除、石垣の修理など資金を投じて発売、市民を喜ばせた。箱館氷は20年間、東京に一手に供給され王者の地位にあった。
1871明治4年、札幌を開拓使本庁府とし、函館と根室に出張開拓使庁をおく。
1872明治5年、開拓支庁を札幌本庁とし函館・根室・宗谷・浦河・樺太の5庁を置く。
この年、山東は改名、山東直砥として神奈川県出仕(県知事・陸奧宗光)。
1873明治6年、函館運上所を函館税関と改める。
1874明治7年、黒田清隆、第三代開拓長官となる。
1876明治9年、明治天皇、東北・北海道巡幸。函館には7月16~18日滞在。
1878明治11年、「函館新聞」創刊。
8月、イギリスの地震学者ジョン・ミル来函、エドワード・モース、ブラキストンらと市中の貝塚を発掘。また、渡島地方の火山を調査。
1879明治12年、函館に第113国立銀行設立。
9月、函館の在監囚人・玉林治右衛門マッチの製造に成功。官営燧木製造所を設置。
11月、函館公園完成。
<井口兵右衛門(一眠)>
西南戦争の際、陸奧宗光は政府転覆事件に関わり、入獄する。陸奧と行動を共にしていた山東は難を逃れるも、ひとまず身を隠すことにし北海道函館に向かう。
ちなみに、陸奧宗光と山東は同じ和歌山県出身だが、二人の出会いは坂本龍馬による。龍馬が後藤象二郎と京へ赴く夕顔丸船中であった。
さて、山東は10年ぶりの函館で下船すると、目立たない静かな宿に身を落ちつけた。
高台から町を見下ろすと、人家はふえても函館独特の光景は変わらない。函館は横浜・長崎のような居留地がなく、町全体に外国公使館や教会が散らばり、日本人の家屋と混在、和洋入り交じった独特のエキゾチック感がある。
翌日、周囲に不審な動きがないのを確認して旧知に来函を知らせると、箱館府の役人時代の友人、井口兵右衛門(一眠)がやってきた。
井口は父が陸奥田名部の南部藩に仕えそこで生まれた。江戸で学問をしているとき戊辰戦争がはじまると、幕府の募兵に応じ将軍の供をして京へ、次いで会津に赴く。
戊辰戦後、新政府の北海道開拓を知って函館に渡り、縁あって豪商の廻船問屋、井口家の養子となる。
再会した井口はすでに隠居の身。北海の隠君子と呼ばれ、古器や図書を身近に置き風流を楽しんでいた。二人は思い出話に花を咲かせる。別の日、井口が山東の宿を訪れると、漢詩らしいものを書していた。
井口は山東の手蹟について「その書は超凡、孫過庭を尊ぶ山東らしく風格があり、非凡である」と絶賛するが、内容に触れていないのが惜しい。
書誌学者・森銑三によると、山東を「豪俊の士」と思いこんでいたが、「詩を通して見る三栗(山東の号)は、宛然たる風流才子」と感心しているからである。
晩年、書家として名をなす山東、どこかに「三栗」署名の一幅が残っていないだろうか。
参考: 『図説写真 函館の1000年』須藤隆仙1982国書刊行会 / 『明治の一郎 山東直砥』中井けやき2018百年書房
| 固定リンク
コメント