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2019年9月21日 (土)

妾が天職は戦いにあり、人道の罪悪と戦うにあり、福田英子(岡山県)

    妾の読み方: わらわ/しょう
 電車やバスの車内、片手にベビーカー、もう一方の手でスマホ操作のママを見かける。一昔前の赤ちゃんおんぶ、手に荷物のお母さんとは大違い。でも、子育て環境はベビーグッズの進歩ほど整っていない。
 多くの女性が働きながら子育てと家事を担っている。子育ての環境を整えないと無理がたたって疲れる。そうなると、家庭も社会も弱ると思うが現実は厳しい。女性が表立つだけで悪口の的になった明治の昔から150年しても、女性の活躍を助ける仕組みは遅れている気がする。

 ところで、明治の男社会の中で、勇気をもって婦人解放を志して活躍した女性がいた。『妾の半生涯』著者、福田英子である。
 国会図書館デジタルコレクションで明治37年初版が読める。本人が著者兼発行、印刷所が*民友社となっていることから、民友社の人々が英子を応援していたと分かる。
    民友社: 徳富蘇峰らが創立し平民主義を唱導。雑誌『国民之友』を発行し『国民新聞』を創刊した。

          福田(景山) 英子      (ふくだ・かげやま ひでこ)

 1865慶應1年、備前(岡山県)、景山確(かたし)・楳(うめ)の次女に生まれる。
    景山家は備前藩の下級武士で維新後、生活が苦しく寺子屋を開いていた。生徒は男60人、女50人ほどいたという。
    母・楳子の父も備前藩の元武士で塾を開き、楳子もそこで和漢の学を学んだ。

 1872明治5年、女子教育に関する県の示達により女子教訓所がつくられた。
    楳子はそこの主要な教授となり自分の塾生をひきいて入り、8歳の英子も学んだ。しかし、楳子は所長と意見が合わず教訓所をやめて、有志者たちと「*女紅場」を設ける。英子は、母が市内の婦人を教育し皆から慕われた生き方をみて成長する。
    女紅場: 裁縫・機織り・手芸などを教え、京都府勧業課が開設した女紅場では英語も教えたという。恵まれない階層の初等教育機関として機能した。

 1874明治7年、研智小学校入学。
 1879明治12年、卒業後、小学校の助教となる。
 1882明治15年5月、岡山で政談演説会が開かれる。はやくも岡山の自由民権運動の影響をうけていた英子は、*中島俊子の演説をきいて婦人解放を志す。

   中島俊子: (岸田俊子) 女性民権運動家。土佐立志社の影響で自由民権思想を抱くようになり、自由党副総理・中島信行と結婚。以後、『女学雑誌』に多くの論文を投稿した。第一線をひいた後、横浜フェリス女学校の教師となる。

 1883明治16年、英子は母と共に、昼間忙しい女子のため夜間部をもつ私塾・蒸紅学舎(じょうこうがくしゃ)を設立。
 この年、岡山の自由民権運動指導者・小林楠雄と婚約。

   小林楠雄: 衆議院議員に連続3回当選、自由党・立憲革新党など所属したが、晩年は不遇であった。

 1884明治17年、集会条例によって学舎の閉鎖を命じられ、これを機に上京する。
   集会条例: 政治集会・結社の取り締まりを目的として制定。軍人・生徒の政治活動を禁止。のち改正され、民権運動を取り締まる。

    上京後、*坂崎紫瀾の教えを受けるとともに、奈良県吉野の財産家の援助をうけて、新栄女学校で学ぶ。
   坂崎紫瀾: 阪崎斌(びん)明治のジャーナリスト。旧土佐藩士。板垣退助に従い、愛国公党の結成に尽力、自由党系の新聞『自由燈』主筆として活躍した。

 1885明治18年、大阪事件
    旧自由党急進派・*大井憲太郎らが朝鮮での親日政権樹立と日本国内の改革と企て、朝鮮渡航直前、大阪で逮捕。英子は爆破物の輸送などに当たったが事前に発覚、同志と共に逮捕された。この事件の渦中、英子は小林との関係を解消する。

   大井憲太郎: 豊前(大分県)出身。長崎で蘭学・仏学・英学を学び、江戸に出て幕府の洋学開成所でフランスの政治・経済思想などを学ぶ。維新後、フランス革命思想にもとづき自由民権の急先鋒となる。藩閥政府を倒すため、朝鮮の独立党と協力して、日本の国内改革を図ろうとした。大阪事件の首領。

 1887明治20年、有罪の判決があり、津監獄に収容される。

    ――― 妾の在監中、16歳と18歳の二少女ありけり、年下なるはお花、年上なるはお菊と呼べり。この二人を典獄より預けられて、読み書き算盤の技は更なり、人の道ということをも、説き聞かせて、及ぶ限りの世話をなすほどに、やがて両女がここに来れる仔細を知りぬ。お花は心の様さして悪しからず、ただ貧しき家に生まれて、一年(ひととせ)村の祭礼の折とかや・・・・・・ わが纏える襤褸(つづれ)の恨めしく、乙女心の浅はかにも近所の家に掛けありし着物を盗みたるなりとぞ。
 またお菊は孤児となり叔父の家に養われしが・・・・・・ しばしば邪の径に走りて、既に7回も監獄に来たり・・・・・・
 ・・・・・・ いとど不憫の加わりて・・・・・・ 両女を左右におきて、同じく読書習字を教え、露いささかも偏頗なく扱いやりしに妾になつきて、互いに妾を労り、あるいは肩をもみ
・・・・・・ いじらしきほどの新設に、かかる美徳を備えながら、何故盗みの罪を・・・・・・ いとど哀れを催し、彼らにしてもし妾より先に自由の身とならば、妾の出獄を当署にて聞き合わせ、必ず迎えに来るようにと言い含め置きたりしも、両女は遂に来たらざりき(『妾の半生涯』)

 1889明治22年、憲法発布の大赦で出獄
     大井と内縁関係になったが、世間には隠して大井と関西方面を遊説して回った。
 1890明治23年3月、男子(憲邦)を出生。
    正式な夫婦でないので戸籍に入れられず、大井の知人の医師の子として入籍。大井は結婚の約束を履行しない上、英子を裏切ったため絶縁。
    英子は、女子工芸学校を開き独立をはかったが、うまくいかなかった。

 1892明治25年、失意の中で、福田友作と知り合い、結婚。3児をもうける。
 1894明治27年7月、友作、対外硬派演説会で「国力権衡論」を演説。
 1900明治33年、夫・友作と死別。

 1901明治34年、婦人の経済的独立を課題に角筈女子工芸学校を設立。
    この年、堺利彦と知り合い、社会主義の啓蒙をうける。
   堺利彦: 明治~昭和期の社会主義者。日露戦争に反対、幸徳秋水らと平民社創立。

 1903明治36年、石川三四郎と親交を結び、平民社に出入りする。

    石川三四郎: 明治~昭和の社会主義・無政府主義者。非戦論を展開し『万朝報』を退職した幸徳秋水・堺利彦らが平民社を結成すると参加。やがて『平民新聞』を創刊。

 1904明治37年、自叙伝『妾の半生涯』出版。
 1905明治38年、小説「わらはの思ひ出」出版。
 1906明治39年、平民社の婦人を中心に社会主義同志婦人会を設立。
    谷中村救済運動にも参加。田中正造の谷中村の悲惨な実情報告をきく。のち、「新紀元」の同人と共にたびたび谷中村を訪ね農民を激励。
    この年2月、二葉亭四迷、英子を訪れる。

 1907明治40年、雑誌『世界婦人』を創刊。
     安部磯雄、石川三四郎、木下尚江、堺利彦、幸徳秋水らの寄稿をえ、また、海外の婦人参政権運動などを紹介。これらを通じて婦人解放運動を推進。
 1909明治42年、『世界婦人』は弾圧を受け、罰金と発禁に遭い、編集発行の石川三四郎は入獄。

 1913大正2年、婦人運動家の先輩として活動
    論文「婦人問題の解決」を『*青鞜』に寄稿。この年、田中正造が死去したが、英子は谷中村復活運動に奔走し続ける。
   『青鞜』: 平塚雷鳥を中心に結成された文学集団の雑誌。旧道徳の破壊、女性の解放を主張して次第に婦人問題の啓蒙を主張するようになった。

 1914大正3年、このころから、雑誌発刊と生活費のため、呉服の行商をはじめる。
    2月、東京府下滝野川へ転居。
    7月7日、『読売新聞』婦人附録に英子の訪問記がのる。

 1927昭和2年5月2日、死去。享年63歳。
    会葬者、約200名。東京駒込の染井墓地に葬る。

    ――― 4月初旬、風邪がもとで、生来の心臓病を併発、一時小康をえるも永眠。南品川寺で挙行された告別式には、英子の葬儀にふさわしい新旧男女各方面の名士が参列した。石川三四郎をはじめ堺利彦夫妻、木下尚江のような社会主義者、婦選獲得同盟の市川房枝とまじって、大阪事件関係者・・・・・・ 福田友作の友人・・・・・・ 同郷人として横田大審院長夫妻も参列するというまことに多方面にわたる人々が会葬した(『妾の半生涯』解説・絲屋寿雄)。

   参考: 『妾の半生涯』福田英子2001岩波文庫 / 『福田英子』村田静子1965岩波新書 / 日本文学大系50巻『近代社会文学集』1973角川書店 / 『近現代史用語事典』安岡昭男1992新人物往来社 / 『日本人名辞典』1993三省堂

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