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2019年9月 7日 (土)

茨城・長野・岡山・宮城・京都・大阪-知事歴任、鹿児島人・高崎親章

 明治期の宮城県知事の出身地をみると、1872明治5年から明治末まで知事は16人。しかも、16人中5人が鹿児島出身で明治30~33年のたった3年間にである。そして、5人とも1年足らずで転任しているのである。
 これでは県民のため仕事をする時間も何もありはしない。はからずも賊軍となってしまった地方を差別しているのか勘ぐりたくなる。
 中には、「熊本転任の報が伝わるや涙する者が続出し、離任の日の駅頭は惜別の群集で埋めつくされた」松平正直(明治11~24年)知事もいる。
 ちなみに、前出5人中の1人、内務官僚・高崎親章は宮城県ではなく関西で「良千石」と賞賛される。順調に出世していく人物にはあまり興味がないが、西南戦争でのエピソードが気になってみてみた。

   明治期。知事は内務大臣の指揮監督を受ける勅任官、府県議会に対しては原案執行権などの非常手段を行使でき、中央政府に責任を負う立場にあった・・・・・・藩閥内閣の時代は内務官僚として政党勢力を圧迫し、政党内閣の時代には内閣更迭のたびに異動させられ浮き草稼業といわれた(『日本史辞典』)。

          高崎 親章   (たかさき ちかあき)

 1853嘉永6年5月1日、薩摩藩士・高崎親広の長男として鹿児島に生まれる。
     幼名・半十郎。
   幕末、 江戸に遊学。
 1875明治8年、警視庁警部補となる。
 1876明治9年、神風連の取調のため熊本主張を命ぜられ、50名の部下を連れて東京を出発。そのころ父の親広が不穏な鹿児島の状況を知らせてくれた。
 1877明治10年、西南戦争。
    ――― いったん東京に戻り、ついで郷里の人々が私学校党に投ずるのを諫止するため21名の同士と鹿児島に出張。ところが、大っぴらに仕事ができず郷党から人扱いされず、そればかりか西郷暗殺の嫌疑をかけられ、また人々は総て西郷の一味徒党として・・・・・・ 官庁も警察もあったものではない・・・・・・ 私学校党の面々が弾薬庫を襲う・・・・・・
 ・・・・・・ (おびき出され警察署に引き立てられ柱に縛り付けられた高崎)ここからが生きながらの地獄道、日毎夜毎じつに酷い責め苦にあって、地も涸れんばかりの苦しい思いをした。細目の縄は手首に深く食い入って、血がポタリポタリと滴る・・・・・・ 六里の道を曳かれて警察本部に押送・・・・・・ 拷問、打つ、蹴る、殴るはまだしも、刺が痛々しい柚の生木で、ピシャリピシャリ位、残酷、峻烈、元より想像の外で苦しみは言葉で尽くされなかった・・・・・・ 戦争が終わるまで拘束され、やがて東京に押送される。

    高崎の父、親広も私学校党に捕らえられ投獄され、獄中で惨殺される。
 ――― 親広は騒擾を防ぐべく、その一部始終を活版刷りにして、近郷近在をふれ回った。それが賊軍(西郷軍)の感情をそこねて、睨まれていたが、親章らが東京に護送されて間もなく、捕縛され捕らえられた。三、四十日も牢に入っていたが、賊軍が鹿児島を敗退する時に、牢から引き出され、怨みは長し、大当橋畔の夕まぐれ、そこで殺害されたのである(『死生の境・高崎親章談』)。

 明治15年、宮城県警部長
  ?年    大阪府警部長
  ?年   内務省警保局主事
 1892明治25~26年3月、内務省警保局長

 ――― 彼は初めより学問素養ありて地位を得たるにあらず、いわゆる身を卒伍に起こして顕職に歴階したるのみ。初めて職を巡査に奉じ、西郷の乱を西南に挙ぐるや、中原尚雄の徒と共に郷里鹿児島に帰省し、計らずも西郷を刺ささんがため大久保内務卿の命を含んで来たれりとの疑惑を受け、賊徒のために捕らわれて鹿児島の獄に繋がれ拷問、呵責ほとんど連日に亘り、皮肉破れて鮮血滴るの苦痛にあい、漸く九死に一生を得て返れり。
 当時なお年少にして職はわずかに小警部たるに過ぎざりしが、この時より西郷刺客の一人として当時の人に高崎親章なる名をば知られたりき、爾後、久しく警視庁に職を奉じ・・・・・・
 ――― 警察事務に最も堪能なる官吏として、いづれの政府にも重宝がられたりき・・・・・・ 各所に知事たりし時もその最も力を用いしは警察事務なりき
 ――― 彼も亦幸運児なる哉。これ固より元老の援引推輓に負うところ少なからずと雖も、彼が26年間の久しき孜孜として単調なる事務に鞅掌し、藩閥のために忠勤を抽んでたるの報酬たらずんばあらざるなり(『大阪人物小観』)

 1893明治26年、茨城県知事
 1894明治27年、日清戦争
 1896明治29年、長野県知事
 1897明治30年、岡山県知事
    ――― 児島湾開墾問題の解決と、岡山市の水道実現との為に内務省の旨を含んだ乗り込んできた知事さんだと云う噂のあった通り、着任翌日に小田市長と話を始めて以来、親身もおよばぬ熱意で指導を続け、驚くべき迫力で政府と折衝にあたった・・・・・・ 「岡山水道守護神」の語を奉っても、過褒にあらざる(『岡山市水道通史』)

 1900明治33年1月19日~3月19日、宮城県知事。
     同年、京都府知事
 1902明治35年~44年、大阪府知事を9年間務める。
 1903明治36年、第5回内国勧業博覧会。
     日露戦争への協力と俘虜収容所などの対応
     7月、勅選の貴族院議員となり没するまで続任。
 1904明治37年、日露戦争

 1908明治41年、池田師範学校の増設。新淀川の建設。
 1909明治42年、新淀川完成。高崎は「良千石」と賞賛される。
 1911明治44年、大阪府知事を退く。
     大阪築港外債、第1回発行。築港工事の進展

 1913大正2年、桂太郎の護憲運動の最中、貴族院にあって新党結成に反対し、民間会社に転出する。

  ?年、知事退任後。
    日本製鋼所会長:日本製鋼所(三井系の北海道炭礦汽船会社と英国のアームストロング社・ヴィッカース社の合弁で北海道室蘭市に設立された兵器製造会社)。
    浪速銀行頭取:浪速銀行(もと第三十二国立銀行、1920大正9年十五銀行に吸収合併)。
    大阪城東土地会社重役。
 1917大正6年創立、帝塚山学院(小学校を経営)の初代理事。

 1920大正9年12月27日、病で死去。68歳。
   ――― 事務を視ること頗る緻密にして一些事といえども之を部下を責むるに巌なるものあり。傲慢の故に非ずして実は細心密慮性に基づくもののみ、一たび対座して語らば彼が案外、洒々落々として城府を設けず、直ぐに腹心を披くの美質を観収するを得べし・・・・・・ 私財を投じて書生に学費を給し、之を教育するにあり
 ――― 彼が往々、蛮勇の化身たるものの如く誤解せらるるは其の容貌風采とその警察出身たるが故にあらざるなきを知らん乎(『大阪人物小観』)。

   参考: 『明治時代史大辞典』2012吉川弘文館 / 『宮城縣史 29』1986宮城県 / 『日本史辞典』1908角川書店 / 『岡山市水道通史』岡山市水道課1944合同新聞社 / 『死生の境』田中万逸1909博文館 /  『大阪人物小観-公人・私人上編』吉本義秋・ 鵜崎熊吉1903 



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