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2019年9月28日 (土)

明治時代の小説家・評論家・詩人、岩野泡鳴(兵庫県淡路島)

 ブログや伝記を書く楽しみは、主人公の魅力もさることながら、多方面の人物に出会い、各地の光景、歴史がかいま見られるのがいい。
 例えば、元気と勇気だけで幕末の世に飛び出し、明治日本を生き抜いた『明治の一郎 山東直砥』を描いていて愉しかった。
 頼れる人物とみればさっそく付き従い、自分の世界を広げていった山東一郎(直砥)。その様子はまるで「わらしべ長者」。さらに彼が愉快なのは、手に何も持たずとも下手に遠慮はしない。そればかりか、時にはわがままで「あらまあー」
 しかし、大成の暁には人の力になり、世のため尽くした。その修業時代、幕末の淡路島で麻疹にかかり寝込んだことがある。

 1862文久2年、山東一郎は、勤皇の志士・*松本奎堂に連れられ淡路島に赴く。二人は島内の洲本(すもと)・賀集村・掃部・片田などの支援者に招かれ、訪ねまわった。
   松本奎堂: 三河国刈谷藩士。通称、謙三郎。幕末期の志士。天誅組の総裁。藤本鉄石らと大和五条で挙兵するも敗れて戦死。

    将軍家茂と和宮の婚儀が行われたこの年、日本中で麻疹(はしか)が大流行。淡路にいた一郎も麻疹に罹り、高田家の人々の親切な看病のお陰で十日ほどで回復、いったん故郷の紀州に帰る。このエピソードで淡路島・洲本という地名覚えた。

  * <兵庫県洲本市って こんなところ>(メトロガイド2019.8月号)
   ――― 大阪湾に浮かぶ淡路島。その中央部に位置する洲本市・大浜海水浴場・洲本温泉・洲本城趾(三熊山)・・・・・・
 
  * <記録に残らぬ職人技>(毎日新聞2019.9.23追悼記事)  
元プロ野球・阪神内野手、鎌田実さん(元阪神内野手・監督、吉田義男氏)。
   ――― 私が1953年に阪神に入って鎌田は4年後に入団した。57年の徳島・蔵本球場でのキャンプは忘れもしない。兵庫・洲本高からきて、第一に感じたのは、ものすごくグラブさばきがうまかったこと・・・・・・ 職人気質。
「一人の打者で二つのアウトを取ることが内野手の夢「記録に表れないプレーを大事にしないといけない」・・・・・・

 折しもプロ野球は、セントラル・リーグで巨人優勝、阿部慎之介引退ニュースで盛りあがっている。そして阪神は、クライマックスシリーズ出場をかけ勝負真っ最中である。
 それはさておき、他に洲本出身を探すと岩野泡鳴という文学者がいた。名を知るのみで作品を読んだことがないが経歴を見ると、人と人との距離が近かった明治時代の人物という感がある。

          岩野 泡鳴  (いわの ほうめい)

 1873明治6年1月20日、兵庫県津名郡洲本町内馬場町七十番屋敷、浜屋敷とよばれる士族屋敷でうまれた。父・直夫、母・さとの長男。本名は美衛。ペンネーム泡鳴は、生地の阿波(=)の鳴門をもじったもの。
 岩野家は代々、阿波藩蜂須賀家に仕え、江戸詰の直参だった。廃藩後、直夫は明治10年から洲本警察署巡査になった。

 1878明治11年、洲本の日清小学校に入学。江戸言葉を使うため、土地の子どもたちからいじめられ、孤独な少年時代を送った。
 1885明治18年、小学校卒業。翌年まで、私塾で英語・漢学を学ぶ。

 1886明治19年、13歳。大阪の泰西学館(宮川経輝牧師が経営)に入学。
 1887明治20年、伝道師になる目的で洗礼を受ける。
 1888明治21年、父が警部補代理の職を辞す。
     6月、一家で淡路を引き払って東京に移る。泡鳴も泰西学館を中退。
     9月、明治学院普通学部本科1年に入学。
 1889明治22年、神田区今川小路の専修学校に入学。法律と経済を学ぶ。
 1890明治23年、父が西久保八幡町9番地に下宿屋「日の出館」を建て、一家で移住。

 1891明治24年、*押川方義を頼って東北学院・本科1年入学。
     “明治のキリスト教教育家、押川方義(愛媛県・宮城県仙台)”
     https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2018/12/post-23bb.html

 1893明治26年11月、東北学院中退、東京に帰る。悲劇「魂迷月中刃」を『女学雑誌』に連載。12月、出版。
 1894明治27年7月、日清戦争開戦。
 1895明治28年、母、死去。この年、竹腰こうと結婚
 1899明治32年、肺を患い、療養のため琵琶湖畔に移り、滋賀県警察署の通訳および巡査教習所の英語教師となる。
 1901明治34年4月~9月、滋賀県立第二中学校(膳所高等学校)の英語教師を勤める。
     8月、第一詩集『露じも』を自費出版。
 1902明治35年、東京に帰り、大倉商業学校の英語教師。

 1903明治36年、30歳。『明星』に長詩「湖畔の静思」を発表。
    11月、前田外林・相馬御風らと文学美術雑誌『白百合』創刊。
 1904明治37年2月、日露戦争開戦。
    12月、第二誌集『夕潮』を刊行。
 1905明治38年6月、『白百合』脱退。『悲恋悲歌』出版、瞑想詩劇『海堡技師』上梓。

 1906明治39年、処女小説「芸者小竹」を『新古文林』に発表。
    8月、『神秘的半獣主義』を刊行。文壇的生活に入る。
 1907明治40年、「自然主義的表象詩論」を発表、この頃から評論活動が活発になる。
 1908明治41年、父死去、家督を相続。
    12月、大倉商業学校を辞職。

 1909明治42年、「耽溺」を『新小説』に発表、文名上がる。
    4月、下宿屋「日の出」を抵当に資金を作り、*樺太のカニの缶詰事業に乗り出す。
       樺太庁: 日露戦争後、領有した北緯50度以南の樺太を統治する行政官庁。昭和20年まで存続。初代長官は、楠瀬幸彦。
    6月末、樺太に到着したが、事業は失敗。
    8月、北海道に渡り放浪生活を送る。
   11月始めに帰京。まもなく、婦人運動家の遠藤清子と知り、同棲。「霊が勝つか、肉が勝つか」と騒がれた。

 1910明治43年、「悲痛の哲理」を『文章世界』に発表。五部作の『放浪』を刊行。
 1911明治44年4月末、清子とともに大阪箕面電鉄沿線の池田に移り、大阪新報記者となる。同紙に、喜劇「閻魔の眼玉」を連載。
    7月、「小説家としての島崎藤村氏」を『早稲田文学』に発表。

 1912明治45年/大正元年7月、『発展』を刊行したが、発禁となる。
    9月、先妻・こうとの協議離婚成立。同月、大阪新報を退社。
 1913大正2年3月、40歳。「ぼんち」を『中央公論』に発表。
    4月、清子入籍。
   11月、「熊か人間か」を『中央公論』に発表。
   12月、論文集『近代思想と実生活』を上梓。
 1914大正3年、「毒薬を飲む女」を『中央公論』に発表、注目を浴びる。

 1915大正4年3月、第五詩集『恋のしやりかうべ』刊行。
    4月、青鞜社補助団員で小学校教師をしていた、蒲原英枝を、プルターク英雄伝翻訳の筆記者に雇う。
    8月、清子と別居。英枝と同棲しはじめ、この三角関係的恋愛事件によって頓挫し悪名を得る。
 清子から「契約破棄並に同居請求の訴訟」がおこされたが、泡鳴も負けずに反駁文を書き、それらを纏めて10月、『男女と貞操問題』を刊行した。

 1917大正6年、清子との協議離婚成立。
 1918大正7年、英枝を入籍。
   10月、『新潮』に「現代将来の小説的発想を一新すべき僕の描写論」を発表。一元描写論および有情滑稽物によって、文壇的地位を確立。
 大正9年5月9日、死去。47歳。
   4月、腸の穿孔による急性腹膜炎で帝大病院に入院、佐藤外科において急逝。東京・雑司ヶ谷墓地に葬られる。

  死後、論文集『悲痛の哲理』、小説集『公爵の気まぐれ』『女の執着』、脚本集『焔の舌』等が刊行された。
 岩野泡鳴は、好きと嫌いが分かれるようで、国会図書館 http://kindai.ndl.go.jp/ に次がある。『梅・馬・鶯 :芥川竜之介随筆集』、『明治文学新選』舟橋聖一 、『文壇人物評論』正宗白鳥。

    参考: 『現代日本文学大系21』1979筑摩書房 / 『現代日本文学大事典』1965明治書院 / 『日本人名辞典』1993三省堂

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