社会事業家・山室機恵子、山室民子 (岩手・東京)
東京オリンピックを翌年に控えた令和元年夏、猛暑に悩まされ災害も多く、台風もやってきた。台風15号は関東地方に大きな被害をもたらし、横浜や千葉県の住民は停電や断水が長引き困っている。ボランティア募集があるほど大きな災害で同情しつつもぼんやりしてて申し訳ない。
しかし、いつの世にも、困難のさなか、苦境にあえぐ人々の助けになろうとする人たちがいる。明治の救世軍、山室軍平と妻機恵子、長女・民子もそうした人物である。
山室 機恵子 (やまむろ きえこ)
1874明治7年12月5日、岩手県花市巻川口町、佐藤庄五郎・安子の長女に生まれる。
佐藤家は開明的な素封家で、機恵子を高等小学校に入れ、名須川他山の元に通わせ漢学を学ばせた。卒業後、数ヶ月間、小学校で教えた。
1891明治24年、上京。巌本善治の明治女学校普通科に入学。
在校中、一番町(富士見町)教会に出席。植村正久から受洗。
1893明治26年、明治女学校卒業。ついで高等文科に進学。
1895明治28年春、高等文科を卒業。
この年12月、山室軍平、救世軍に入る。翌年1月、日本人初の士官となる。
救世軍: 軍隊組織による庶民伝道と社会事業を目的としたプロテスタントの一派。日本では山室軍平などにより創立され、出獄者の保護・職業紹介など社会事業に貢献。創始は1865年、イギリスのブース。
機恵子は、来日した救世軍の日本風俗への同化の努力に感動、行儀作法を伝授。
下田歌子らの大日本婦人教育会が設立した女紅場で教壇にたつ。
『女学雑誌』の事務。明治18年創刊の婦人雑誌、女子の一般教を目ざし政治・社会多方面に及び、漸次、文芸的傾向に。
日本基督教婦人矯風会書記
1899明治32年6月、救世軍初の日本人仕官、山室軍平と九段坂上の教会にて結婚。
当時はまだ、日本の救世軍は創業のときで世間に理解されず、侮蔑、嘲罵されていたが結婚、軍平が孤軍奮闘する救世軍に入隊。
山室軍平: 1872明治5年9月22日、岡山県生まれ。軍平の生家は貧農で早くに養子にだされるが、向学心が強く出奔して上京。活版印刷工となり、自学自習するなかでキリスト教の伝道にふれ入信。
1900明治33年、軍平は娼妓・自由廃娼運動を開始、遊郭に赴き暴徒の襲撃により負傷、救世軍に同情があつまった。
救世軍が起こした廃娼運動では、解放娼妓のための厚生施設・婦人救済所(東京婦人ホーム)を開設。機恵子はその責任者となる。救済所には津田梅子、島田三郎夫人、海老名弾正婦人など同情と援助、寄付が集まった。
――― (山室救世軍大佐夫人)その実力を有していながら・・・・・・ 夫自身の力の外に、妻の力を加えて、二人力で社会に活動せしめるという態度は、単に、宗教家の妻として、驚嘆に値するばかりではない。一般の人の妻としてもまた正に、模範とすべきものものであると信ずる・・・・・・ 遂によく日本救世軍の軍旗が、全国を風靡せむとする程の成績を挙げ得たといふことは、もとより、山室大佐が・・・・・・ 焔えて居るためであることは言ふまでもないが、内にこの夫人のあるありしことが、与って大いに力を添へたのであることを、忘れることは出来ない(『熱罵冷評』)
――― 山室氏の築地に醜業婦救済所を設立し自ら之に長たるや夫人またつとめて収容する処の廃業者につき篤く炊事裁縫編み物とうの職業を授く、現に救済所にある者八名ありと、皆よく夫人の徳になびき成績頗るよろしといふ、以て夫人の志操の賞すべきかを知るにたらん、夫人未だ壮なり、将来有望の好婦人として社会に遇せらるるに至るべきは期して待つべきなり(『名士名家の夫人』)。
同年9月18日、長女、民子生まれる。
1905明治38年、東北地方大飢饉による人買いの手から女子を守るため、救世軍が東北凶作地子女救護運動を起こしたとき、保護された子女のための寄宿舎の責任者として就職先を世話した。
1907明治40年、救世軍の創立者・ウイリアム・ブース79歳が来日。救世軍大将の制服着用で明治天皇に謁見。
1916大正5年、結核対策事業として、結核療養所設立を企図したが、その募金活動中に激務の中で倒れた。
同5年7月12日、難産のため人事不省に陥り浜町病院に入院、死去。42歳。
子どもは、山室民子、山村武甫ら6人。
1917大正6年、救世軍療養所内に機恵子記念会堂が建てられる。
山室 民子
1900明治33年9月18日、山室軍平・機恵子の長女として東京で生まれる。本名・たみ。
?年、 女子学院
?年、 東京女子大学に入学するも健康がすぐれず、南湖院に入院するなど2年休学ののち卒業。
?年、アメリカのカリフォルニア大学に留学。アメリカで伝道にあたっていた小林政助の知遇を得る。このころ、救世軍仕官として献身の決意を固める。
1937昭和12年9月、英国ロンドンの救世軍万国士官大学に入学。
キリスト教に基づく社会事業などを研修。
1938昭和13年、万国士官学校・万国本営編集部に勤務。
キリスト教の立場から社会教育に従事。
1939昭和14年、帰国。
救世軍士官学校や救世軍社会部、仕官雑誌係などをつとめる。
1940昭和15年、父・山室軍平、急性肺炎で死去。68歳。著書『救世軍略史』ほか。
1942昭和17年、キリスト教団厚生局主事をつとめる。
1945昭和20年、敗戦後、日本救世軍本営総務部長、労働省婦人少年問題審議会委員などを歴任。
文部省初の女性視学官となり、成人教育や宗教問題の国際会議に出席。
国際キリスト教大学評議員。東京女子大学理事。
1954昭和29年2月、『ときのこえ』編集者となる。
1959昭和34年、大佐補。書記長官となる。
1962昭和37年、引退。本部付として奉職。
1981昭和56年11月14日、死去。81歳。
著書:『聖地ものがたり』『聖地に咲いた花』
参考: 『日本人名辞典』1993三省堂 / 『日本キリスト教歴史大事典』1988教文館 / 『山室機恵子』山室軍平1916救世軍出版 / 『 熱罵冷評』高島米峰(大円) 1917丙午出版社出 / 『名士名家の夫人』須藤愛司(靄山)1902大学館 / 『近現代史用語事典』安岡昭男編1992新人物往来社
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