衛生学者・社会運動家、国崎定道(熊本)
ブログを書きはじめて10年余、日々のアクセス、時折のコメントに励まされ毎週更新しているが、一週間はあっという間。題材が見つからないときもある。そんなとき、辞典などを順にみたりするがこれが思ったより愉しい。こんな人がいたのか、驚いたり、感心したり、未知の人物に出会えるからだ。
先日「熊本地震から3年半・復興について」の番組をみた。それで熊本出身人物をさがし、国崎定洞に行き当たった。伝記があっても不思議ではない波乱の生涯、悲運の人である。
国崎 定道 (くにさき ていどう)
1894明治27年 熊本市で生まれる。父の宗英は医師で村医をしていた対馬で育った。
1907明治40年ごろ、単身、姉の嫁ぎ先である埼玉県川越の田中家に移り寄宿。
?年、川越高等小学校、川越中学校(埼玉県立川越高等学校)を卒業。
1912大正元年、第一高等学校第三部(英語組)を卒業。
ボート部選手、寮祭委員などで活躍。成績は常に3番以内だった。
1915大正4年9月、東京帝国大学医学部を卒業。
この間の学資は弁護士をしていた義兄(姉の夫)の援助を受けたという。
1919大正8年、卒業。
1920大正9年、大学院に入る。
5月、東京帝大附属伝染病研究所(東京大学医科学研究所)技手。
7月、陸軍省嘱託(コレラ防疫専攻)。
1921大正10年12月、1年志願兵として近衛歩兵第3連隊に入隊。
1922大正11年、軍医少尉として陸軍の軍務についた。陸軍二等看護長。
在隊中に社会科学、政治に関する本を熟読して、マルクス主義に開眼したという。
1923大正12年、軍務を終えて伝染病研究所に復帰。
学問への意欲が強くなり、インフルエンザ・ジフテリアなどの研究を行い、また実地指導するため各地に出張した。
1924大正13年、医学部助教授。
東大本学に移った後に新人会に出入りし、政治研究会に入会した。
国崎は東大の学生時代から社会科学へ興味を抱いていたが、社会主義に関心を持つ学生との接触で、実践活動に踏み出した。
1925大正14年、衛生学教室に移籍、基礎実験に没頭する。
研究のかたわら産業労働調査所の依頼で、尾去沢鉱害調査を行う。
1926大正15年、文部省から社会衛生学研究のためドイツに派遣される。
ベルリンで日本人留学生の社研に参加したり、社会民主党所属アカデミー総会に出席。有沢広巳・山田勝次郎らとドイツ各地を旅行、見聞を広める。
1927昭和2年夏、ドイツ人女性、フリーダと結婚。
1928昭和3年、ドイツ共産党に入党。
1929昭和4年、東京帝大社会衛生学講座教授の座を約束されていたが依願免官となる。
国際反帝同盟世界大会、ドイツ共産党の集会などに出席。
ベルリンに滞在している日本人シンパ(千田是也ら)とともにドイツ共産党日本語部を結成し責任者となる。
1932昭和7年、片山潜の勧めを受けてソビエト連邦・モスクワに亡命。
モスクワで翻訳の仕事をし、当時コミンテルンの執行委員だった片山潜と交際をもつ。
1933昭和8年、東方勤労者共産大学の大学院に学ぶ。
卒業後は外国労働者出版所の日本語部門に勤務。
モスクワで日本人の社会主義運動関係者を支援、日本共産党関係の活動にも従事。
しかし、モスクワの日本共産党代表である山本懸蔵は、国崎を「日本のスパイと結びついている」としてソ連当局に密告。国崎は外国労働者出版所の役職を解かれ、内務人民委員部(NKVD)の監視下に置かれた。
国崎のドイツ人の妻と娘の二人は国崎の逮捕後、ドイツに強制送還される。二人は消息不明となったが戦争の時代を生き抜き、のちに西ベルリンに在住していたことが鈴木東民によって確認された。
1937昭和12年8月、大粛清のさなかのに「日本のスパイ」として逮捕される。
12月10日、銃殺刑に処された。
ソ連はスターリン批判後の1959年に国崎の名誉を回復した。
<「国際歴史探偵」の20年より>
――― 国崎ファイルを見ていくと、彼が1937年に銃殺刑で粛清された理由は、どうも勝野金政という日本人が1930年から34年まで強制収容所(ラーゲリ)に入っていて、国崎はその事件の関係者として銃殺されたことが分かりました。
その勝野金政は,1934年夏に懲役刑を終えて保釈され,日本帰国は禁じられていたのですが、モスクワの日本大使館に逃げ込み、奇跡的に日本に生還したことが、当時の新聞記事と、戦後に書かれた勝野『凍土地帯』(吾妻書房1977年)から分かりました。
・・・・・・ 勝野金政はラーゲル送りになるまで片山潜の私設秘書で、彼と国崎定洞は1928年のベルリン。30年代初めのモスクワで、片山を介して関係していました。そのことがどうも、国崎定洞がその後「日本のスパイ」としてソ連で粛清された直接の理由だと解読できました(加藤哲郎2014-08-25法政大学大原社会問題研究所)。
参考: 『民間学事典』1997三省堂 / 『日本人名辞典』1993三省堂 / ウイキペディア
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