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2019年10月19日 (土)

台湾でも活躍、日本近代を生きた建築家・森山松之助(大阪)

  <大阪冠する梅田 駅名は世につれ>
 阪急電鉄と阪神電気鉄道のターミナル梅田駅がそろって、大阪梅田駅と改称される・・・・・・ 現場の駅員は連日、「梅田とは大阪のことなのか?」といった質問を、外国人観光客から受けている(2019.9.19毎日「一点張り」)
 筆者も大阪城見学のため大阪駅に行ったつもりが、着いたのは梅田駅、「大阪駅はどこ?」友人と二人、駅構内や駅前をウロウロしたことがある。
 またその日は、白く優美な姫路城を見たあとだったから、豪華絢爛いかにも豊臣秀吉を彷彿させる大阪城に圧倒されたせいもあるのか、なんだか落ち着かなかった。
    “姫路城、姫路の漢詩人・河野鉄兜(兵庫県播磨)”
    https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2019/03/post-aed9.html

 同じ日本でも土地の空気というか、風土はかなり違うよう。まあ、明治の世から100年以上続いた梅田駅ときけば、ご当地感覚は大事にした方がいいと思う。しかし、初めて訪れる者には分からない。
 駅名に限らず、地名も由緒と判りやすさの兼ね合いが難しい。これが外国となったどうだろう。たとえば、戦前、日本が領有していた台湾とか。
<台湾に根づく先達の心意気・落成100年 設計に関わった森山松之助>(毎日2019.9.25)をよみ、 森山松之助という建築家に興味をもった。
日本近代建築家列伝』を開くといた。列伝の副題は「生き続ける建築」、J.コンドルをはじめ35人の建築家がでている。森山松之助をみると、事績・生い立ちとも興味深く紹介してみたい。

         森山 松之助

 1869明治2年6月2日(新暦7月15日)、大阪市東区平野町(大阪市中央区平野町)で生まれる。父は外交官、貴族院議員を務めた森山茂の長男。両親の離婚から叔父・*五代友厚の家で育てられる。
       “明治前期の英和辞書、三木佐助、イーストレイク”
    https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2016/02/post-3ebd.html

   ?年    学習院尋常中学校。
 1893明治26年、第一高等学校を卒業。
         東京帝国大学工科大学造家学科に入学、28歳で卒業。
        以後、大学院に5年間在籍、「造家上換気及び暖房」を専攻。
 1894明治27年、日清戦争。
 1895明治28年4月、下関条約締結。清は日本に対し、遼東半島・台湾を割譲し賠償金2億テールを支払う。ちなみに、遼東半島は三国干渉により清国に還付。

 1897明治30年、大学院卒業。
 1898明治31年、第一銀行建築係嘱託。
 1900明治33年、東京高等工業学校の建築学講座担当
      結核のせいか10年間は定職につかず、仕事としては嘱託・講師・執筆活動などをしていた。一方、私生活では芸者遊びで散財し、親から勘当されて借金取りに追われ、友人宅を転々としていた。
     この間、岡田工務所を設立した岡田時太郎の家に4年ほど居候、設計を手伝っていた。岡田は辰野金吾のもとから独立、工務所を設立。その岡田が満州に行くことになり、森山は友人・血脇守之助の邸兼診療所に居候する。そこへ医者仲間の後藤新平が訪れる。
 診療所の建物を気に入った後藤新平は、森山に台湾行きを勧める。辰野金吾が勧めたとの説もある。

 1904明治37年、日露戦争。翌年、アメリカの斡旋で講和(ポーツマス条約)が成立。
 1906明治39年、37歳。台湾総督府営繕課技師として多くの官庁建築を手がける。

     台湾総督府(現・中華民国総統): 台湾統治のための官庁。はじめ武官総督制で、民政とともに軍政・軍令の全権を有したが、のち、文官総督が任命され、台湾軍司令官が任命される。1898明治31年からこの39年に民政長官・後藤新平により都市基盤が整備された。日本にとって初の植民地となった台湾経営は、本土でできない理想の都市を実現しようとした。後藤が森山を台湾へ誘ったのが頷ける。
    ちなみに、原敬首相のとき台湾植民地文官総督制が採用され、文官総督は田健治郞、台湾軍司令官は柴五郎であった。その柴五郎と森山松之助は同時期、台湾に居たことになる。しかし、軍司令官と総督府技師では、すれ違うこともなかったろう。

 1909明治42年、森山の台湾での初仕事は、二階建ての台北市電話交換局
    それまでコンクリートは部分的に用いていたが、全鉄筋コンクリート造にした。
 1912明治45年、欧米各国視察に出張。

 1913大正2年、北投温泉公共浴場(現・北投温泉博物館)を手がける。
 1921大正10年、このころ課長に推されたが、「印判押すのは嫌だ」「もう台湾には何もつくるものがない」と総督府を辞し日本に帰る。

 1922大正11年、東京に森山松之助建築事務所を開設
 1924大正13年、学習院の後輩、久邇宮邦彦王の御常御殿を設計。のち、聖心女子大学敷地内に曳家。
 1926大正15年、東京・本所公会堂設計。代表作であるが老朽化で取りこわされた。

 1927昭和2年、ご成婚記念御涼亭、新宿御苑に今も建つ旧御涼亭(台湾閣)設計。
        明治乳業両国工場設計。
 1928昭和3年、上諏訪温泉・片倉館(重要文化財)設計。
     千人風呂とよばれる深さ1mの浴槽の底に石が敷き詰められている。彫刻なども西洋風で、昭和初期には類のない洒落た温泉だった。
     片倉別邸(現・諏訪湖ホテル)は、別邸兼迎賓館として建てられ、洋館は板の間に暖炉が付き、シャンデリアが下がる華麗な意匠であった。
 1929昭和4年、東京歯科医学専門学校設計。見事な構成美により昭和戦前モダニズムの傑作として定評がある。代表作の一つ。
     東京神田、中華料理店「杏花楼」・東京銀座の米井商店(現・ヨネイビルディング)・丸嘉ビル
 1930昭和5年、上伊那図書館(現・伊那市創造館)の基本設計。
 1932昭和7年、佐世保市公会堂朝日石綿ビルはモダン建築の佳作といわていれる。
 1933昭和8年、明治製菓銀座売店設計。
 1944昭和19年、戦争により仕事がなくなり空襲が始まる。
      港区高輪から世田谷区代田に転居。

 1945昭和20年、山形県鶴岡市に疎開。途中、荷物を載せた車輌が爆撃を受け、多くの設計図が喪われた。戦後は東京に帰ることなく亡くなる。
 1949昭和24年4月2日、鶴岡市の*斎藤方で逝去。79歳。青山霊園に葬られる。
     *斎藤: 彫刻家・斎藤靜美の実家。

     ――― 53歳から72歳までの20年間、施主の要求に着実に応え、どんな建築にも手を抜かず、真摯に設計活動を展開した背景には何があったのだろうか。1919大正8年には25年間貴族院議員だった父・茂が亡くなり、金銭には困っていなかったと推測されるが、楽ではない設計の仕事がよほど好きだったのであろう(「社に構えた人生 親しみやすい作風」・古田智久)

     ――― 日本近代建築の歩みは、西洋の組積造と洋式の急速な導入、地震国であるための構造の工夫と鉄筋コンクリート造の導入、植民地を獲得し地域が拡大したことによる異なる文化・風土への対応と、絶え間ない刺激と変化の連続であった。森山はこれらに柔軟に対応し、洋風、和風、モダニズム、どれも高いレベルでこなした・・・・・・ 森山が新構造技術やモダニズムを柔軟に吸収していったのは、台湾総督府営繕課が新進気鋭で鉄筋コンクリート造の先進地であったこと、民間の建築家として限られた予算の中で施主の要望に応える努力をしていた・・・・・・ 多彩な作風は、老いてなお新しいものを取り入れる気概にあった(同・古田智久)

    参考: 鹿島出版会2017『日本近代建築家列伝 ― 生き続ける建築』<森山松之助「斜めに構えた人生 親しみやすい作風」(古田智久)。
    古田智久: 横浜市役所勤務。かたわら日本近代建築史の研究。

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