日本ラグビーの父・明治大正の実業家、田中銀之助(神奈川県)
<横浜で決勝戦開催!ラグビーワールドカップ2019>「かながわ県のたより平成27(2015)年11月号)」 平成から令和になって開催されたワールドカップ! 日本チームの活躍もあり大人気。俄ラグビーファンが多勢生まれた。
それにしてもこのところ日本はたびたび災害に見舞われている。台風19号、大雨で被災した人たちも少しはラグビーを見ただろうか。
――― 「ラグビーもまた礼なかるべからず。・・・・・・競技者各自においてゼントルマンとしての品位の保持尊重は何事にありても最も肝要なるもの」と説いたのは、日本のラグビーの父といわれる田中銀之助である(毎日新聞[余録]2019.10.22)。
ラグビー: イギリスイングランド中部、ウォーリックシャーにある都市。鉄道交通の中心地で、電気機械工業なども行われる。ラグビー・フッとボールは1823年にここで始まった。
ちなみに、田中銀之助という同姓同名の音楽家がいる。
田中 銀之助
1873明治6年1月20日、生糸の相場で儲けた「天下の糸平」こと田中平八の長女と北村菊次郎の長男として生まれた。父は三代目田中平八を名乗り、糸平不動産、田中鉱山を興した。
?年、 進学予備校であった神田淡路町の共立学校(現・開成中学)に一時在籍。
1884明治17年に学習院初等科入学。
次いで、学習院尋常中等科(現・学習院中等科)入学。
1887明治20年、留学準備のため横浜のビクトリア・パブリック・スクール入学。
ここで後に共にラグビーを日本に伝えるエドワード・B・クラーク(1874~1934) と出会う。
1889明治22年、イギリス・ケンブリッジ大学トリニティ・ホール・カレッジ 留学。
1896明治29年6月、法学士の学位を取得。
1897明治30年、帰国。
田中銀行の取締役に就任。
のち、東洋鉱山の役員・田中鉱業取締役・日本製鋼所の役員にも就任。
経営者として敏腕を振るうと同時に私財を投じて赤坂に体育クラブをつくるなど、ラグビー以外のスポーツ振興にも力を尽くした。
――― 帰朝するや自家経営になる田中銀行に入りて怪腕を揮い・・・・・・積弊を打破して良好なる成績を挙ぐるを得たり。君が大地主として又た鉱山業者としての技量は頗る見るべく・・・・・・(『大日本人物名鑑』1921ルーブル社出版部)
――― 富豪の子弟と生まれた彼は・・・・・・ 慶應にも入ったが勉強などはそっちのけという有様、柔道・テニス・乗馬と遊ぶ事ばかり考えて暮らした、勿論大好物の女の方にも抜け目なく発展して・・・・・・ こう述べ立てると彼は完全に道楽者の標本の様で、何ら取り柄のない人間の如く見えるが、馬鹿にした者ではない、柔道は2段の腕前・・・・・・
日露戦争のすぐ後であった、一年余に亘る戦争の惨苦をしみじみ体験した陸海軍の将士は意気揚々と凱旋し、国民も彼らに対する慰労の宴を張って、連日連夜ご馳走攻めにしたことがあった。当時、上村大将は実業家の招待を受けて新橋の某旗亭に痛飲したさい、その席に列した銀之助は大将があまりに昂然たる態度で威張り散らすので、遂にたまりかね得意の柔道で一撃を喰らわした。これには流石の勇将も閉口したそうで、之れ等は彼一代の傑作である(『財界名士とはこんなもの』湯本城川1925事業と人物社)。
1898明治31年、 北海道炭礦鉄道会社・理事(社長・*高島嘉右衛門)
“南部藩、御用商人(高島嘉右衛門・村井茂兵衛・小野組)”
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2015/08/post-9885.html
1899明治32年、銀之助は慶應義塾大学教授E・B・クラークと共に、慶應義塾の塾生にラグビーのルールについて伝え指導。
本場英国ラグビーを慶応義塾に教えることになったが、相手が居なくては試合も出来ないから、母校の学習院にもラグビーを教えた
――― 「日本のラグビーにおけるクラーク氏と田中銀之助氏」
日本で最初にラグビーを始めたのは慶応義塾大学であるが・・・・・・ クラーク教授はイギリスオックスフォード大から帰朝した田中銀之助の助けを借り普及に努めた。そして田中銀之助が学習院の出身者であることから学習院にも同時期にラグビーが伝えられた・・・・・・
クラーク氏は当時新任の英語教師で、明治7年に横浜で生まれた・・・・・・横浜のクィーンズ・ビクトリア・パブリックスクール、ジャマイカの大学を経て英本国に帰り、ケンブリッジ大学のカーバス・クリスティ・カレッジに入学・・・・・・その際横浜時代の友人である田中銀之助と再会。
卒業後は第二の故郷である日本に戻り、慶応義塾大学予科の語学講師・・・・・・ 慶応義塾大学教授、旧制第一高等学校講師も兼ね・・・・・・ 京都帝国大学英文科教授現職のまま生涯を終えた。
クラーク教授とともに協力者としてラグビーの発展に努めたのが田中銀之助である(学習院大学ラグビー部HP)。
1903明治36年、初代会長となる高木喜寛は、慶応ラグビーを育てつつあった銀之助の勧めにより、しばしば三田綱町のグラウンドに現れてはラグビーを楽しんだ。
ちなみに、高木喜寛の父は軍医で貴族院議員の高木兼寛。
1907明治40年前後10年間、奈良県吉野郡下「層狀含銅硫化鉄鉱床」鉱山の全盛期であつた。その後数人の手を経て1926昭和元年に日本鉱業株式会社が買牧、まもなく休山となる(「奈良県吉野郡下の層狀含銅硫化鉄鉱床概査報告」1957小村幸二郎)。
1909明治42年11月、慶応義塾蹴球部がラグビー渡来10年記念祭を祝い「ラグビー式フットボール」を発刊。
――― 「クラーク教授とともに忘れべからざるは同教授の学友にして剣橋(ケンブリッジ)大学に日本人プレーヤーとして勇名さくさくたりし田中銀之助これなり。
・・・・・・ その初めフットボールはなおいまだ慶応義塾体育会に加えられずして出費の負担到底我ら学生の耐えあたわざる時に当たりてや、氏はしばしばボールを吾人に恵まれ推奨はなはだ勉められたりき。今なお、対外試合あるごとに、あるいは作戦上の注意、あるいはグランドにおけるタクチックについて精細なる忠告を吾人に与えられる。
・・・・・・ ラグビー創設時のメンバーが初めて使った楕円球は田中銀之助から寄贈されたボールだった。当時ボールは貴重品でボール1個が27円から28円で「シルコック」社製だったという・・・・・・ 国際試合や著名な試合で使われているボールは『ギルバート』製のものが一番多く、ボール製造業者の広告にも『シルコック』は見当たらない ・・・・・・ この会社は靴と鞄を主として製造している会社であった。
・・・・・・ 年間の部費が160円程度の時代であるから終戦直後の頃のボール事情と似ている。学習院にも田中銀之助からボールが寄贈されており、それを使って練習していた。
1921大正10年、神津邦太郎から神津牧場の経営を引き継ぐと、東京府世田ヶ谷村羽根木に分農場を設けて東京市内に牛乳を販売した。
1926大正15年、日本ラグビーフットボール協会創立。
銀之助は会長就任を固辞、名誉会長となる。会長は高木喜寛。
――― 田中の指導は実技以上に「ラグビー精神」の修養を求めるものだった・・・・・・ 出身国も多彩な日本代表の「ワンチーム」が合い言葉となり、敵味方が一つになる「ノーサイド」の美学も学んだ日本人だ。残るベスト4への応援を終えた後も、心の中で長く育てたい大会のレガシー(遺産)である([余録])。
1935昭和10年年8月27日、死去。享年62歳。
――― その性格は祖父平八氏の血を享けただけに一種の豪傑的風貌そなへ、気骨稜々として任侠の気風に富み、頭脳稠密にして、計数の才能は先天的とさえ噂されしかもこれらの総ては茫洋たる態度の内に包んで顕はさない。だから氏の人物輪郭の偉大は計りがたく、その量と深さは一寸見当がつかぬのである・・・・・・ その行くとして可ならざるなきは、宛然祖父糸平が往時の武者振りを忍ばしむるのである(『時と人』渡部静江1920新声社)
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