最後の将軍徳川慶喜の用人、黒川嘉兵衛(江戸)
電車の乗客、立っていようが座っていようが横一列で俯いている光景は珍しくない。便利で面白いスマホに見入っているのだ。右も左も無言で下向く光景は異様にうつる。
人に物を尋ねるよりスマホから情報を得る方が簡単。自分の頭で考えずとも答えが得られる。そんな暮らしを続けていると呆けるのが速いかも、そう思うのは思い過ごし?
その昔、顔を合わせ相手の目を見て話し、書簡も書く人受けとる人と情報は人から人へだった。しかし、時代が大きく揺らいでいると情報交換は命懸けということもあった。そしてその時、主人公には参謀となる側近が欠かせない。
たとえば、水戸藩主の子、徳川慶喜が一橋家を継ぎ最後の将軍となるがその前後、時代の変化が激しかった。その一橋家に平岡円四郎という将軍継嗣問題でも活躍した用人がいた。
ところが、表立ち過ぎたのか京都で暗殺されてしまった。その死後、跡を継ぎ筆頭用人となったのが黒川嘉兵衛である。
ちなみに、一橋家は御三卿といわれ御三家につぐ家格、将軍家の重要な藩屏である。
用人(ようにん): 江戸時代、幕府諸大名・旗本家の職名。財政をはじめ庶務万般を取扱い、有能者を登用することが多かった。幕府の側用人などはその適例で、ときには老中をしのぐ権勢をふるった。
『明治の一郎 山東直砥』で、山東一郎と樺太探検・岡本監輔の二人が黒川嘉兵衛と出会い彼に興味をもったが、そのときは経歴とか判らなかった。山東もそうだが、表舞台に登場する人物の業績は伝えられるが、参謀とか黒子といった人物の事績は伝わりにくい。黒川嘉兵衛についても詳しい記録は見つからなかったが、関わった事柄から幕末の事件、世相がかいま見えから見てみた。
黒川 嘉兵衛
1815文化12年、生まれる。名は雅敬。
1853嘉永6年6月3日、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリー、浦賀に来航。黒川は浦賀奉行支配組頭(副奉行の役割)として対処。
6月22日、第14代将軍・家慶死去。
7月18日、ロシア極東艦隊司令長官プチャーチン、長崎に来航。
1854安政1年1月6日、ペリー再び浦賀に来航。
支配組頭・黒川嘉兵衛は再び交渉事務を担当。ポーハタン号に乗り込み、アダムス艦長および通訳ウィリアムスとポートマンと折衝。日米和親条約を締結したペリー提督は下田に回航、浦賀奉行所支配組頭・黒川嘉兵衛と条約をどのように実施していくか具体的な事項の交渉を行っていた。そのような中で、吉田寅次郎(松陰)の渡航未遂事件(密航)が発生、事件の取調にあたった。
黒川は黒船に乗りこみ、寅次郎を尋問。その際、黒川は寅次郎の罪を軽くしてやろうとしたが、寅次郎は伝馬町の牢でも「死罪となってこの企てが天下に露見するならそれも本望」といったという。
1854嘉永7年、ペリーの再来航に際しても交渉事務を担当。下田奉行組頭も歴任する。
この年、ペリーの配下の従軍写真師エリファレット・ブラウン・ジュニアによって撮影された黒川の銀板写真が今に残る。外国人が日本国内で日本人を撮影した現存最古の写真の一枚、2006年に重要文化財に指定。
1858安政5年、安政の大獄。黒川はいったん免職、差控となる。
1863文久3年7月、一橋家に用人見習として取り立てられ、慶喜と昵懇。
8月、*平岡円四郎らとともに陸軍取立掛を命ぜられ。
11月、用人格となり、京へ先発する。この後、京都にあって常に慶喜に仕える。
平岡円四郎: 1822-1864。旗本・岡本近江守の4男、のち平岡家の養子となる。性孤高、変物と目されたが、才気煥発・弁舌鋭鋒をもって知られ、川路聖謨・藤田東湖の推薦により、一橋家雇小姓となる。慶喜が将軍職後見となったのち、一橋家用人となる。公武合体派の重鎮となった慶喜の股肱の臣として活躍、名声大いにあがった。その後、攘夷派の水戸藩士に殺害される。
1864文久4年、番頭兼用人となり、一橋家家老・平岡らとともに徳川慶喜の政治活動を補佐する。
平岡に代わり一橋家用人筆頭となった黒川嘉兵衛は、帰京した渋沢栄一らに「足下らの志も立つように、使えるだけは使って遣るから必ず力を落さずに勉強したがよい」と述べ、失意にあった栄一も大きな望みを得る。
京都で慶喜は公武合体派諸侯の中心となるが、裏で動いているのは平岡と用人の黒川 嘉兵衛と見なされた。
2月(元治元年)、側用人番頭を兼務。慶喜からの信任は厚く平岡とともに名を知られ、平岡の死後、用人の筆頭になる。
2月7日、黒川は中川宮を訪ねて、慶喜が前日に老中・本庄宗秀から聞き取った話(上京の使命は幕兵による御所守衛と慶喜・容保・定敬東帰、贈賄工作によるこれらの実現であること等)を知らせ。
5月、一橋家家老並に任命される。
6月2日、慶喜の請願により太夫となる。
平岡に代わり一橋家用人筆頭となった黒川嘉兵衛は、帰京した渋沢栄一らに「足下らの志も立つように、使えるだけは使って遣るから必ず力を落さずに勉強したがよい」と述べてくれ、失意にあった栄一も大きな望みを得る。渋沢は攘夷の志を抱いてこれより前から一橋家に仕えていた。
1865慶應元年春、京はやや平穏で小康を得、一橋家と各藩との交際繁く、黒川らはその周旋に忙しかった。黒川は幕府より禄を加えられ300俵となる。
1866慶応2年12月5日、慶喜、第十五代将軍となる。
8月3日、原因は不明だが黒川は慶喜に遠ざけられ、失脚、一橋家を去り、若年寄支配に登用される。
――― 黒川には平岡のように才略はなかったが、能く人の材を知り、人の言を入れたるは、其の長ずるところ(『徳川慶喜公伝』)であったから再び慶喜に仕える。
1868慶応4年2月、再び慶喜に仕え目付(柳営補佐)に登用される。53歳。
しかし、鳥羽・伏見の戦いに敗れた慶喜は謹慎。江戸城を出て上野東叡山大慈院に謹慎。
4月、江戸開城の日、慶喜は水戸に向かう。
黒川は慶喜助命嘆願のため上洛、奔走。津藩(安濃津/藤堂藩)を訪ね、また京に赴き斡旋。
?年、 黒川は晩年を京都で過ごしたようだが、没年も不詳。
――― 藤堂藩の藩祖・藤堂高虎は戦国時代の名参謀・名軍師といわれ、「名参謀や名軍師の存在は[匿名性]に貫かなれていなければならない」と・・・・・・ だから英傑を支えた本当の名参謀や名軍師は「匿名性」によってなかなか発掘されないのだ(『参謀は名を秘す』童門冬二)。
参考: 『徳川慶喜公伝』渋沢栄一1868東洋文庫 / 『雨夜譚』渋沢栄一1984東洋文庫 / インターネット
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