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2019年11月30日 (土)

琵琶湖のもみじ、歴史ある近江、その近代(滋賀県)

 晩秋、友人と東京駅から新幹線で「琵琶湖のもみじ湖東三山と紅葉の名所・永源寺」ツアーに参加。看板にいつわりなし、どこのモミジも見事だった。
 ただし、山上の古寺、樹林に分け入るには階段を上らないと辿りつけない。途中で音を上げぼやき、頭上をみると紅や黄のヤマモミジの重なりが美しく、一瞬疲れを忘れた。
 雲間から陽がさすと紅葉は輝きを増し、透けて見える黄葉がはなやかに歴史に趣を添えるよう。これこそ日本の自然美。
 なにしろ、滋賀県は創建年号が三桁という古刹が数あり、聖徳太子に関わる説話も多い。奈良・平安の名所に勝るとも劣らない歴史が身近な地なのだ。
 観光バスガイドさんの話も当然、あまたの名所、古寺案内はむろん、豊臣秀吉の長浜城、石田三成の佐和山城、*伊吹山など歴史話は枚挙にいとまがない。お陰で愉しめた。

    伊吹山: 岐阜県との境界を画する伊吹山地の南端にそびえる山。県下の最高峰で、全山石灰岩からなる。高天原の聖地ともいわれ、日本武尊の鬼(山賊)退治の伝説が残る。また、息吹モグサで代表されるように、高山植物・薬草の宝庫として知られる。頂上の眺めは雄大で、琵琶湖から比良・比叡の連山、鈴鹿産地、濃尾平野などが一望できる。
 『大菩薩峠』愛読者として、「胆吹の巻」(1933昭和8発表)、机龍之介とお銀様、お雪ちゃんの三人の絡みが描かれた「伊吹山」を目にすることができて、うれしかった。作者の中里介山はいつごろ伊吹山に赴いたのだろう。

 さて話を戻して翌朝、琵琶湖畔のホテルの窓から長浜城を眺め、歴史の跡が多い土地柄、歴史好きが多そう。おそらく滋賀県愛に溢れたガイドさん、仕事柄もあろうが歴史好き。知識を得るにつれ、さらに生まれた故郷に愛着を増していそう。
 ところで、古い歴史が今に残る近江の地からみれば、江戸はいかにも新しい。ここでは、関ヶ原以後の近江、滋賀県の明治をみてみる。

          滋賀県の明治・大正

 1600慶長5年、関ヶ原の戦い。東軍が勝利、石田三成ら京都六条河原で斬首。
     徳川四天王の一人・井伊直政、18万石で佐和山城へ転封。慶長8年、彦根城普請に着工。
 1802享和2年、琵琶湖周辺大水害。
 1819文政2年、*湖東を中心に大水害。
     湖東: 琵琶湖の東。琵琶湖周辺を湖西・湖北・湖南に分ける。
 1850嘉永3年、井伊直弼、彦根藩主となる。
 1853嘉永6年6月3日、アメリカ東インド艦隊司令長官ぺりー、軍艦4隻を率い来航。
 1854安政1年、安政の大地震。
 1858安政5年、井伊直弼、大老に就任
 1859安政6年10月、安政の大獄。
 1860万延1年3月3日、井伊直弼暗殺される(桜田門門外の変)。
    水戸を中心とし薩摩を加えた18名の浪士により暗殺された事件。直弼が勅許を待たずに日米修好通商条約に調印したことや、将軍継嗣問題などで尊攘派・幕政改革派を弾圧し、安政の大獄起こしたことが原因。
 
 1868明治1年3月、大津裁判所開庁。
    大津裁判所: 大阪・兵庫・長崎・横浜などに設置されたのが最初で、司法と行政の区分が明確でなかった。むしろ地方行政機関の性格が中心だった。
       4月、大津坂本の日吉大社で廃仏毀釈発生。

         廃仏毀釈: 慶應4年新政府は王政復古・祭政一致を唱え、神仏混淆を禁じ神道国教化政策を実施。この神仏分離令を契機に西日本を中心に極端な廃物運動が激化、寺院・仏像などの破壊や寺領没収が続出した。ことに当地は由緒ある寺院が多い。多くの古刹が災難にあったと思うと残念でならない。

     <明治初期、滋賀県のなりたち> M=明治
    大津藩-大津裁判所(M1.3.7)-大津県/ 膳所藩-膳所県-/ 水口藩-水口県/ 仁正寺藩-西大路藩-西大路県/ → 大津県(M4.11.22)→ 滋賀県(M5..9.28)
    山上藩-山上県/ 彦根藩-彦根県/宮川藩-宮川県/ 山形藩(羽前)-朝日山藩-朝日山県→ 長浜県(M4.11.22)→ 大上県→ 滋賀県(M5..9.28)

 1872明治5年、県下初の『滋賀新聞』創刊。
 1875明治8年3月、陸軍歩兵第九連隊、大津に駐屯。
     6月、大津に小学校教員伝習所(滋賀大学教育学部の前進)設置。
 1880明治13年6月、東海道線旧逢坂山トンネル、初めて日本人のみの手で完成。
 1882明治15年2月、大津自由党結成。 3月、北陸線長浜・敦賀間開通。
     5月、太湖汽船会社創立。 10月、近江水産会(近江水産組合前身)結成。
 1886明治19年、滋賀県商業学校(八幡商業学校)大津に開校。
 1887明治20年、滋賀県立尋常中学校(彦根東高校)開校。
 1890明治23年、琵琶湖第一疎水完成。第二疎水、明治45年完成。
 1891明治24年5月11日、大津事件発生。


   ――― シベリア鉄道起工式列席の途次、国賓として来日中だったロシアの皇太子ニコライが大津市内で警備にあたっていた津田三蔵巡査に切り付けられた事件。
 皇太子の傷は浅かったが、日露関係の悪化をおそれ、明治天皇みずから皇太子を神戸港のアゾーワ号に見舞った。
 松方内閣は津田に大逆罪を適用し、死刑にするよう主張したが、大審院長・児島惟謙以下の司法部は、政府の干渉をしりぞけ、謀殺未遂罪を適用、無期徒刑の判決をくだした。
 この判決は司法権の独立を守ったものとしてよく知られる(「郷土資料事典」)。

 1894明治27年8月、日清戦争。
 1895明治28年、信楽陶器業組合設立。
 1896明治29年9月、県下に史上最大の大水害発生。
 1897明治30年、県下最初の電灯が大津でともる。
 1898明治31年、*大東義徹、第一次大隈内閣の司法大臣に就任(県出身者初の大臣)。

     大東義徹: おおひがしぎてつ 1842~1905。政治家。彦根藩士の子。維新後は、藩の少参事、ついで司法省判事、欧米視察。西郷隆盛の知遇を得、西南戦争では西郷軍に加わり敗れて京都で獄中生活。国会開設以来、衆議院議員に当選、隈板内閣の司法相(明治31)となった。

 1904明治37年、日露戦争。
 1905明治38年、書家*巌谷一六死去。

    巌谷一六: いわやいちろく 1834~1905。名・修、号・金栗道人。家は代々の水口藩医。明治初年、新政府の官僚となり、のち貴族院議員。中国の学者・陽守敬の来日に際しその影響を受け、日下部鳴鶴らとともに魏・晋・唐の書法を究めた。
 三男の巌谷小波は小説家・童話作家。博文館「少年世界」の主筆となり同誌に毎号、少年文学おとぎ話を執筆し人気をあつめた。

 1907明治40年、*中川源吾、ビワマスの卵100万粒の採卵に成功。

    *中川源吾:1847~1923。近江高島郡百瀬村(高島市)の農家に生まれる。知内川漁場取締人。明治以降琵琶湖水産資源の乱獲から漁獲高が次第に減少、漁獲制限と水産資源の繁殖の必要性を説く。組合規約を定め、禁漁区を設けることで徐々に禁漁を実行。
 高島郡水産蕃殖会設立後、琵琶湖に複数の養魚場を設置。「琵琶湖水産11年計画」立案にも従事。知内養魚場100万匹の琵琶マスの人工孵化に成功。皇室御料池・国内各地からフィリピン・アメリカにまで鯇(鯉科の淡水魚)卵・稚魚を要請に応じ送った。
 後年高島郡教育会の委嘱をうけ『琵琶湖水産誌』を刊行。水産教育にも尽力した。

 1909明治42年8月14日、姉川地震発生。

 1914大正3年10月、荻田常三郎、八日市沖野原で県下初の飛行を行う。
 1917大正6年11月、湖東・湖北地方で陸軍特別大演習実施。
     この年、小口太郎、「琵琶湖周航の歌」を作詞。

 1921大正10年3月15日、江若鉄道、三井寺下・叡山間が開通。
 1922大正11年3月3日、全国水平社創立大会、*南梅吉を初代中央執行委員長に選出。
       南梅吉:1878~1947。大正・昭和期の水平運動家。

     4月、イギリス皇太子、琵琶湖を遊覧。
    10月、彦根商業学校(滋賀大学経済学部の前身)開校。
 1925大正14年8月、大津柳ヶ崎に県下初の公衆水泳場開設。
     この年、マキノスキー場でスキー大会開かれる。
       
    参考: 『滋賀県の歴史』1997山川出版社 / 『郷土資料事典 滋賀県』1997人文社 / 『日本人名辞典』1993三省堂 / 『日本史辞典』1908角川書店 /ウイキペディア

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