昭和戦前期を代表する彫刻家、堀江尚志(岩手県)
図書館には各都府県の歴史やガイドブックも並んでいるが、「○○県の不思議」シリーズはネーミングにひかれ読みたくなる。『岩手県の不思議事典』(新人物往来社)には<ヴェネツィアに残る優美な墓標の謎>がでていた。以下その一部。
――― ヴェネツィア本島の沖合いに浮かぶ小島サン・ミケーレは市民の共同墓地。ここに、日本人青年の横顔を浮き彫りにした優美な墓が残っている。墓標の主はヴェネツィア高等商業の日本語教授で・・・・・・ 蘭学者・緒方洪庵の第十子、緒方惟直、制作者は彫刻家・*長沼守敬・・・・・・ 長沼はヴェネツィア駐在の日本政府名誉領事グリエルモ・ベルシェの求めで、緒方の墓標を製作することとなった。この経緯は、長沼と留学生同士で交流、終生の友となった森鷗外の『独逸日記』にも詳しい。
“1900年パリ万博・金賞「老夫像」、長沼守敬 (岩手県/千葉県)”
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2015/10/1900-1f35.html
――― 日本の近代彫刻は、木彫の高村光雲、洋風彫刻ではイタリア人ラグーザの来日から始まったとされている。ラグーザによって移植された草創期の洋風彫刻は、長沼守敬(ながぬまもりよし)によって根づくことになるが、実際に近代彫刻が日本の地で確立されたのは荻原守衛(碌山)、高村光太郎が帰朝してからであったといえる。ロダンを知らず、保守的で沈滞していた日本の彫刻界に彼らは革命的といえる激しい刺激を与えた・・・・・・
――― 堀江尚志が生きた時代は、もうこんな前近代的な状況ではなかったが、しかし、愚劣な官展彫刻はまだあまりにのさばっていたといえる(『岩手の先人100人』)。
堀江 尚志 (ほりえ なおし)
1897明治30年2月23日、岩手県盛岡市新築地(盛岡市大通三丁目)で生まれる。 父は旧盛岡藩士の堀江磐男、鉄道員。
弟・赳(たけし)と泰男も東京美術学校(東京藝術大学)彫刻科に通う。
?年、 盛岡市桜城小学校。
?年、 東京順天中学
大正?年、 東京美術学校彫刻科塑像部選科に入学。
同級生には【渋谷ハチ公像】の作者・安藤照(てる。1892生)、京都の彫刻界で活躍した松田尚之らがいた。
1920大正9年、在学中、初作品【ある女】出品、特選。
帝展において2年連続特選を受賞。堀江は卒業を待たずにはやくも彫刻家として知られるようになった。
――― 大正期後半に20代から30代前半であった1890年代生まれの彫刻家としては長谷川栄作、日名子実三・・・・・・ 堀江尚志、陽咸二らがあげられる。彼らは、世の中の動きが理解できるようになり、美術について明確な関心をもちはじめる。十代の頃に東京で文展(文部省美術展欄会)が始まったことを知り、本格的に彫刻に取り組んだ二十代頃にロダンの死に遭遇し、「ロダン以後」の表現を探求した世代であった(『近代日本彫刻史』)。
1922大正11年3月卒業。
卒業と同時に師の*朝倉文夫らが結成した東台彫塑会に入会。
朝倉文夫: 彫刻家。東京美術学校卒。写実性の高い作品を製作。帝国芸術院会員。文化勲章受賞。23年間母校で後進を育成。東京谷中に朝倉彫塑館。
1925大正14年、第5回帝展に出品した【少女座像】が帝展推薦となる。
「少女座像」は台に腰掛けた全裸の少女が両手を尻の下に置いたほぼ左右対称的な姿勢でまっすぐ正面を向く作品、その凛とした静かな姿の中にかすかにたゆとうような感動を内包する(『近代日本彫刻史』)。
「少女座像」はすでに帝展リアリズムの巧みさ、文学的興味の低俗さに対する厳しい批判であり、官展派的描写の姿勢に対する痛烈な一打であった。
1926大正15年、作品制作中に喀血。若くしてその才能を開花させたが、療養をよぎなくされる。しかし、療養の合間にも小品製作を続けた。
1929昭和4年、朝倉塾展にブロンズ【狗】一対。この作品は、単純な形のなか内面的な力強さをもつもので、紫波郡紫波町の志和稲荷神社奥殿に納められている。
――― *横川省三銅像は戦時中に供出されて現在は台座しか残っていないが、その原型は同市須賀川町の報恩寺に保存されている。
また、同市桜山神社 青銅燈籠も彼の作である。また、【少女座像】は岩手県蔵と成っている(『岩手の先人100人』千葉瑞夫。以下同)
“日清戦争従軍記者・横川省三(岩手県)”
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2013/03/post-694e.html
“明治の志士・日露戦争の軍事探偵、横川省三”
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2012/07/post-5867.html
1931昭和6年、朝倉塾展美術賞【康夫立像】
同年3月、東京府美術館で第一回展を開催。
美校の同級生、安東照(帝展不出品者)・松田尚之ら11人で槐人社を結成。毎年、定期的にグループ展を催すことになった。
「槐」というグループ名にいれた彼らは、堅牢なフォルムをもつ作品によって彫刻界に若々しい空気を吹き込む。その中心となった堀江尚志や安東照は、いずれもほかの彫刻家たちにも大きな影響を与えた。
1932昭和7年、第13回帝展に【裸婦】を出品。第二回槐人社展に【鯉】出品。
――― 【裸婦】は一見平凡な立像だが、しみいる温かな体温を感じさせる名作であり、【鯉】も研ぎ澄まされた量感と無駄なく洗練された造詣、見事な動勢を讃えている。
1933昭和8年、鋳鉄による【石】制作。
1934昭和9年、第15回帝展【兎】出品。
この帝展で審査員にあげられ、その才能を大いに嘱望された。しかし、病あらたまり起つことができなかった。
1935昭和10年6月5日、持病の結核のため東京の自宅にて39歳で死去。
――― 堀江の遺作は20点に満たないといわれる。これは十余年の作家生活の大半を痘病に追われ、寡作であったことも一因だが、自身満足のいかない作品は完成後でも思い切りよく破壊したり、捨て去るといった厳しい作家姿勢を貫いたことにもよるものである。
しかし、それだけに残された一作一作は代表作と評し得るだけの見事さを持っている。
初出品で特選【ある女】出品は堀江の意思ではなかった。堀江は夏休み中の勉強のために制作、松田に見せた明後日にこの作品を壊すつもりだった。勉強のためだから壊してやり直すというのを、松田らが説得、担いで帝展の会場に搬入したという。
同郷人で美校の後輩、舟越保武は、堀江の彫刻を
“しいんと静かに存在して余分なものが全くなく、その毅然とした静かさは、東洋の美の芯と思われる”と評している。
――― 友人である西常雄の首を堀江が制作したことについて、彫刻のモデルに向いた西の顔だが、堀江の作った西の首があまりに優れていたため以後、誰もそれを作ろうというものが無かった・・・・・・ その制作の姿勢をしのばせるエピソードである。
参考: 盛岡市ホームページ / 『岩手の先人100人』千葉瑞夫1992 / 『近代日本彫刻史』田中修二2018国書刊行会(p444、図6-22堀江尚志<トルソー>1932の写真) / 『近現代史用語事典』安岡昭男編1992新人物往来社
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