大正期、日本人の海外発展を目指した千葉豊治(宮城県)
ハローウイン間近、リュックにかぼちゃのストラップをつけて出かけた。
“ああ上野駅” https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2013/07/post-edce.html
JR*上野駅の中央改札を出るとコンコースが賑わっていた。見れば<交通総合文化展2019>(主催・日本交通文化協会)、何枚ものパネルに写真・絵画、書や俳句まで展示されていた。
その中で「人馬一体」涌谷城山公園前の江合川(えあいがわ)河川敷で開催された東北輓馬競技大会、馬も騎手も一体となって力を振り絞っている写真に目が入った。この一枚だけでなく展示の写真は、いずれ観光用として多くの人の目にふれそう。
ところで同じ宮城県の丸森町は19号台風に大雨が重なって被災、大変な目に遭っている。これ以上災害に襲われませんように、そして一日も早い復興を祈るばかり。
宮城県は縦に長い。福島県境の丸森町から仙台までかなり距離があり、それと同じくらい北に行くと、今回の主人公・千葉豊治の生まれ故郷、古川市がある。
千葉豊治は大正デモクラシーの先駆者・吉野作造と同年代に生き、海外雄飛。米国、満州に渡り、波乱の生涯を送った人物である。
『天開の驥足―千葉豊治物語―』(伊藤卓二1987大崎タイムス)を参考に紹介したい。
“大正デモクラシーに理論を与えた人、吉野作造(宮城県)”
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2011/04/post-f3aa.html
千葉 豊治
1881明治14年12月29日、宮城県志田郡古川町中里台屋敷18番地、千葉愍治(みんじ)の三男に生まれる。
1887明治20年、古川尋常小学校に入学。
3歳上に吉野作造がいて家も近く仲が良かった。
1894明治27年、日清戦争。新領土、台湾を得る。
1897明治30年、父親に学問の道を反対され家出。
東北本線、東海道本線、山陽本線を乗り継ぎ下関港着、さらに東シナ海を基隆(キールン)港に向かい台湾に上陸。
台湾では国語学校ニ入学。生活費を稼ぐために日本軍の小間使いとなり走り使いの合間に勉強をした。
1898明治31年、父、危篤の知らせに台湾から帰郷。7月、父永眠。
同年、仙台の宮城県立農学校に入学。
在学中、仙台日本基督教会・吉川牧師より洗礼を受ける。
1902明治35年3月、農学校を卒業して上京。早稲田大学政治経済学科で学び、永井柳太郎(のち政党政治家)と親しくなる。
かたわら海老名弾正の指導を受け、本郷教会日曜学校を手伝いつつ、月刊誌「新人」同人となる。
*小山東助も編集同人で文才を認められ*島田三郎のすすめで毎日新聞社に入社した。
島田三郎: 政治家・ジャーナリスト。横浜毎日新聞主筆。廃娼・足尾鉱毒被害者救済運動を支援。
“明治・大正期の新聞記者・評論家、小山東助(宮城県)”
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2018/03/post-8517.html
1904明治37年、日露戦争。
1905明治38年2月、著時の豊治の恩師・島田三郎宅で医学博士弘田の妹・弘と婚約。
6月、早稲田大学卒と同時に、東京府農会書記となる。
1906明治39年6月、渡米。横浜から東洋汽船会社のアメリカ丸でサンフランシスコに上陸。
当時のサンフランシスコは、4月の大震災で港町の大半が焼け生々しい瓦礫に埋もれていた。ひとまず、サンフランシスコ湾内のオークランドに落ち着く。ついで、カリフォルニア州立大学で経済学を学ぶ。
さらに日刊邦字新聞「日米新聞」の編集を補佐。新聞社の宿舎のあるオークランドに移る。
――― 農業雑誌ルーラルプレスという週刊雑誌など通俗的なものから、大学や農事試験場で研究したものの要点を翻訳するなどして農業欄をうめた。家庭欄は、町の医者に頼んで新婚家庭向きの人夫や授乳や乳児の世話を扱ったり、アメリカの婦人雑誌から日本人向きの欄を翻訳して載せた。これが、評判になり、読者から体験談とか、パンフレットなどの注文が寄せられ、誌面がバラエティに富むようになった。
また、*ルーサー・バーバンクの農場を訪問、「北米農法」に紹介記事を掲載した。
*バーバンク: アメリカの植物学者、品種改良家。彼は『種の起源』ダーウィンの思想に感激、その思想を実践して新植物を育成しようとしたバイオテクノロジー(生命工学)を実践した先駆者でもあった。1872年、バーバンクポテトを開発など、多数の園芸・農作物の改良に成功している。
1908明治41年春、宮城県古川町が大火。豊治の生家、吉野作造の実家も焼けた。
この年、日本はアメリカ金融恐慌のあおりと日露戦争余波、不況による労働争議、赤旗事件などで動揺していた。
6月、海老名弾正、渡英の途中アメリカを経由、豊治の婚約者・弘を同伴。海老名はバークレー市、太平洋神学校にて千葉の結婚を取りしきる。
8月、日米新聞社、社業拡張のためサンフランシスコに移る。
豊治は社説・産業・経済欄を担当する。ほかに「日米年館」の編集に従いカリフォルニア各地を歴訪調査。
1909明治42年2月より、月刊雑誌「北米農報」発行。日本人農家の啓蒙指導を図る。
この年、長男誕生。のち、長女、次女、次男誕生。
11月、渋沢栄一を団長とする渡米実業団が来ると、総領事から頼まれ、太平洋岸の視察見学の案内、また*バーバンクの農園にも一行を案内した。
1913大正2年、『排日問題梗概』編集出版。
吉野作造は留学の帰途、アメリカで同書を千葉豊治から寄贈される。
カリフォルニア州は排日運動が活発で、日本人の不動産所有禁止法が公布される。
1914大正3年、植物学者ルーサー・バーバンクの後援会・バーバンク協会名誉会員。
1916大正5年4月、日米新聞社を辞める。
在米日本人の農業中枢団体を設立、加洲(カリフォルニア)中央農会専務理事となり、邦人の生活向上、農業発展の指導に当たる。
また、加洲中央苺生産販売組合・南北加洲併合蔬菜生産者組合・太平洋米作者組合・加洲種苗生産者組合の各理事、桜府(サクラメント)平原苺生産者組合長を兼務。
1917大正6年、小麦の不作と第一次欧州大戦にアメリカが参戦し、戦時食料政策から小麦の代用品として米が脚光をあび、需要が増し値段もあがった。広大な大陸のカリフォルニア州の米の耕作面積は増大の一途をたどる。
1918大正7年、株式会社桜府(サクラメント)日本銀行取締役に就任。
邦人農業者の金融機関としてサクラメント平原、スタクトン川下一帯の発展に貢献。
1920大正9年3月、在留邦人農業者を代表し日米問題金融救済陳情のため日本に帰る。
――― 4月24日、アメリカ合衆国カリフォルニア州中央農会専務理事千葉豊治、栄一を飛鳥山邸に訪ひ、排日の顛末及び在留邦人の農業金融事情等を詳話し、且つその著述「米国ニ於ケル排日問題ノ内容及之レガ善後策私案」を、是日栄一を通じて当委員会に提出す。栄一之を更に内閣総理大臣原敬に提出す(渋沢栄一記念財団HP)。
6月、アメリカに戻る。
1921大正10年、この時代アメリカ西部各州に於いて排日の風潮が甚だしくなり、在米邦人の苦難の時代となる。
――― 豊治のアメリカ時代は、一口にいって移民排斥、排日運動渦中の16年間だった。豊治の功績は排日運動の矢面に立ったこと・・・・・・ 海外発展に志したる一個の人間が、その時代と国策の動きに依っていかに行動せざるを得なかったか・・・・・・
6月、憂慮した豊治は同志と共にその緩和、善処に尽力するも楽観すべからざるを思い、新に朝鮮・満州・中国などで開拓する必要を痛感、調査のため家族とともに帰国。故郷で楽しい日々を過ごし、家族はアメリカへ戻っていった。
豊治はアメリカに残る在留邦人のため、新たな移住地として朝満拓殖に携わる政府要人の訪問を開始。元満鉄総裁で東京市長となっている後藤新平は拓殖移住の縁故を約束してくれた。
10月、*満鉄および朝鮮総督府の委嘱により、朝鮮各道、南北満州、北支、東部内蒙古、ウスリー沿海州地方の産業資源・経済事情などの状況を踏査。
*満鉄: 南満州鉄道株式会社。日露戦争により日本が獲得した大連-長春、奉天-安東県間の鉄道および支線、鉄道付属地、撫順、煙台炭鉱などの付属事業を経営するための半官半民株式会社。初代総裁、後藤新平。1945年9月閉鎖。
1922大正11年8月、満鉄入社。アメリカの家族を呼び寄せる。
社長室嘱託となり、産業開発に関する調査、邦人農家扶植に関する立案を担当。
――― 「父は防寒着で身を包み、大陸の調査へでかけました。ひとたび調査旅行となると一ヶ月以上になるのが普通でした」・・・・・・ 豊治はさっそうと馬でかけめぐり、日本の食糧不足克服と排日運動で生活をおびやかされているアメリカの在留邦人を救済する
ため調査研究を繰りかえした。
11月より1年間、東亜勧業株式会社調査事務の嘱託。
南満洲鉄道株式会社庶務部調査課編「調査資料」1925・「満州農業の特質と日満農業の比較研究」1927など、国会図書館デジタルライブラリーで読める。ほかに「満州の気象と乾地農業」などの著書、報告、計画書などを発表。
1923大正12年、模範共同果樹園を計画、創立。
9月1日、関東大震災。
1927昭和2年から3年間、カーネギー平和財団日本経済事情の調査し報告書「満蒙の東洋における経済上の地位」を提出。
1928昭和3年、満鉄熊岳城農業実習所の設立に関わり評議員。
1929昭和4年、満鉄系大連農事株式会社の創立に参加、常務取締役。同6年、辞任。
1930昭和5年12月、関東庁方面委員の嘱託、翌年、常務委員。
1932昭和7年、商工省より満蒙における経済事情調査を嘱託され、2年間担当。
1934昭和9年、関東庁水源調査の嘱託。
1936昭和11年、満鉄に復帰、同社経済調査会、総務局などの嘱託勤務。満州農事協会理事など多数、名誉職その他従事する。
1941昭和16年12月8日、真珠湾攻撃。日米開戦をしると豊治は「アメリカと戦争を起こして勝てるはずがない」と家族に嘆いた。
1944昭和19年9月22日、国際平和を求め、みずから移民農業を通じて実践した豊治、翌20年8月の敗戦をみることなく満州で逝く、享年63。
父危篤の知らせを戦場で受けた二人の息子のうち、次男は帰宅を許され死に目にあえた。しかし、中支戦線にいた長男は帰宅を許されず戦場で父の死を知る。
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