明治の東京、鉄橋建設の中枢を担った技術者・教育者、原龍太(福島県)
子どものころ隅田川の草の土手でバッタやトンボを追い、遠出の遊び場は隅田公園や白鬚神社。浅草へお出かけは嬉しかった。松屋、花屋敷、映画街、女剣劇、松竹国際劇場(現ビューホテル)どこも大賑わい。隅田川を渡る吾妻橋・白鬚橋・勝鬨橋なども懐かしい。
ともあれ橋は数え切れないほどあるが、明治の東京で新技術を導入、約20橋もの建設に携わった技術者がいる。
原龍太といい、東京の鉄橋は彼によって造られたといっても過言ではない。東京大学工学部には今も原の胸像が保存され、原が優れた技術者であり、同時に優れた教育者であったことを物語る(『東京の橋100選+100』)。
『東京の橋100選+100』は、昔と今の橋の写真が豊富で東京都建設局橋梁構造専門の著者ならではの解説で、名の知れた鉄橋だけでなく石橋、レンガ橋なども興味深い。
原 龍太
1854嘉永7年(安政元年)、10月15日、福島藩医・原有燐と周子の長男として陸奥国信夫郡瀬上町(せのうえ。旧宿場町。福島市)で生まれる。
――― とき恰も尊攘の論、海内に鼎沸し、次いで大政奉還となり戊辰の戦乱となる。乱後堵に安んぜず四方に流転し、一度家を挙げて三河に移りしが2年にしてまた郷里に帰る。少年にして藩校の教斑に列す。辞職して米沢の英学校に学ぶ(『慶応義塾出身名流列伝』)。
1873明治6年、上京して慶應義塾に入る。貧しかったが学資を援助する人があった。
1875明治8年、開成学校
1877明治10年9月、東京大学理学部土木工学科に入学。
1881明治14年7月、卒業。理学士となる。東京府に出仕。
市内鉄橋工事の主任技師となり橋梁の設計・施工を担当。また馬車鉄道の敷設工事、市区改正測量図など各種の公共工事に携わる。
1882明治15年、東京馬車鉄道の敷設工事を完成。
1886明治19年~大正8年まで第一高等中学校(のち第一高等学校)で、工科(工学)・理科(理学部)・農科(農学部)志望の生徒に測量を教えた。
――― 測量の教鞭をとったのは非常勤の教員で、初代の東京府技師・原龍太が東京帝国大学工科大学土木工学科に転じて以後、代々、同学科の助教授が担当した(東京大学駒場図書館展示「第一高等学校と測量」解説)。
『測量教科書』( W. M. Gillespie A Treatise on Land-Surveying.抄訳)野村龍太郎・原龍太の共訳
1887明治20年、洪水で流失した吾妻橋を難工事の末に架けかえ名声を博す。
12月開橋。吾妻橋は隅田川に架かる長大橋のうちで最も早く鉄橋化された。
鉄骨トラスの下に通路を配した下路式プラットトラスと呼ばれるこの構造は、明治中期の長大橋ではもっともポピュラーなスタイル。
――― 浅草の赤いランドマーク吾妻橋。構造は錬鉄製のトラス橋で、長さ約150m当時日本最長の鉄橋。橋の正面には2本のゴシック調の塔がたち、上部に桜の透かし模様の飾り板を配した装飾豊かな橋。材料の鉄は英国から輸入したが、設計は東京府技師長・原口要、倉田吉嗣、架設工事は原龍太ほか日本人の手で行われた。関東大震災では落橋は免れたが、木造の床は焼け落ちた(『東京の橋』)。
1889明治22~29年、第一高等中学校・第一高等学校で測量を教える。
1891明治24年、<東京市水道工事を担当>
東京市飲用水の汚濁に関して、衛生上、水道布設を急ぐべしとして水道改良工事の必要を主張。上下水道の付設、東京市の水道改良取調を行い、今日の飲料水に功あり。
<御茶ノ水橋> 原龍太設計
構造は錬鉄製の日本初の上路式トラス橋で、深い谷に架かる鉄橋は東京名所の一つになった。関東大震災で木造の床が焼失。昭和6年現在のラーメン橋に架けかえられた。
<西河岸橋を架橋> 原龍太設計
レンガ橋脚でレンガは今も当時のもの。関東大震災で落橋しなかったが、木造の床が焼失。鉄の橋脚も火炎で損傷を受けたが、橋脚などは無事で、大正14年に橋桁だけ交換された。
『掌中工学公式(模氏)』上下、ガイルホルド・エル・モルスオース、共益商社、校閲。
『土木学(麻氏)』マハン著、白井練一・原龍太共訳、攻玉社。
1896明治29年、市区改正委員。
1898明治31年、浅草橋を日本初の鋼鉄製のアーチ橋に架けかえる。
側面には、橋名の浅草にちなみ麻の花の透かし模様が施された美しい橋。設計は江戸橋と同じ原龍太と金井彦三郎。現在の橋は震災復興で架けかえられた昭和5年の橋。
1899明治32年3月、工学博士の学位を得る。
7月、東京帝国大学工科大学教授を兼任。土木工学第一講座を担当。
足尾銅山鉱毒予防に関する土木事項の調査を行う。
1901明治34年、日本橋川にかかる江戸橋を鉄鉱製のアーチ橋に架けかえる。
――― この橋の設計は、明治期に東京の鉄橋建設の中枢を担った東京市の原龍太と金井彦三郎のコンビ。上司の原が構造を決め、実際の構造計算や設計図の作成は金井があたったと思われる・・・・・・ アーチ橋の側面に桜の透かし模様が施された美しい橋であった・・・・・・ 関東大震災の復興事業で橋は昭和通りの一部として架けかえられ、昭和2年、現在の鉄鉱製の2連アーチ橋になった(『東京の橋』)。
<余談>
江戸橋は江戸時代には日本橋に次ぐ格式のある橋であった。兜町に近く、砂の荷揚げ場があった。その砂を販売していたのは日本橋の「土屋太郎兵衛商店」といい、左官屋・大工の現場に砂や石灰など配達していた。NHK「新日本紀行」に登場したこともある。
1903明治36年、万世橋を鉄鋼製のアーチ橋に架けかえる。
――― 浅草橋と同じく設計は原龍太と金井彦三郎。橋の側面には桜の透かし模様が施され、製作は東芝が請け負った。当時、東芝は橋も造っていたのである・・・・・・。
江戸時代、ここには見附の御門が設けられ筋違い橋と呼ばれた・・・・・・ 明治6年、東京では明治以降初の石造アーチ橋に架けか、萬世(よろずよ)橋と改名された。文明開化の象徴として多くの錦絵に描かれ・・・・・・建設は肥後の石工の棟梁であった橋本勘五郎(同上)。
その他、和泉橋・左衛門橋・湊橋・浅草橋・新橋・京橋などをてがけた。
1907明治40年、横浜市水道局技師長、水道土木に携わり水道の拡充に努める。
東京瓦斯会社の工務顧問などを歴任。
1910明治43年、辞職して東京瓦斯会社嘱託となる。
1912大正元年12月30日、死去。
妻・繁子、6男1女あり。長男・恭造は工学士として官職にあり。
弟は医学博士・隈川宗雄、医学博士・原勇四郎。
参考: 『慶応義塾出身名流列伝』三田商業研究会1909実業之世界社 / 『立身致富信用公録. 第9編』1903国鏡社 / 『東京の橋100選+100』紅林章央2018都政新報社 / 『近代日本人の肖像』国会図書館デジタルライブラリー
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