明治・大正期の炭鉱事業家、小学校開設、貝島太助(福岡県)
歳末の昼下がり、柴五郎ファンと皇居お濠端を散策した。『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』の読者にコメントをもらうことはあっても話しをするのは初めて、有意義で愉しい時間を過ごした。
“会津人柴五郎と竹橋 & 8月15日(福島県)”
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その柴五郎ファンは、九州から会津に赴き柴五郎の跡を辿る旅の途中、羽田で飛行機を降りて竹橋に直行してきた。ところで、筆者が卒論のため会津を訪れたのは30年昔。初対面ながら、柴五郎ファン同士、話がもりあがったのは言うまでもない。
歴史話の合間、教師の彼女が一生懸命生徒と向き合う様がかいま見え、感心した。きっと、教室の雰囲気は彼女の笑顔のように明るく元気。
それもあって今回は九州人、しかも柴五郎のように逆境をのりこえ、ひとかどの人物をと思い、失敗しては立ちあがる貝島太助をあげてみた。
貝島 太助
1844弘化2年1月11日、筑前国鞍手郡直片(のおがた)町(福岡県直方市)で生まれる。本姓は山本、親類の貝島家の養子となる。実家の父、栄四郎は身分が低く家計が困難だったので住み慣れた穂波郡の忠隈から直方町に移住。石炭坑夫となって一家を支えた。
1852嘉永5年、太助8歳。父を助けて坑内に入り5年余り働いた。
1857安政4年、13歳。雲泉寺(又は雲心寺)の小僧となったが、学問を好まず僧侶にならなかった。
1862文久2年、18歳。父の病気で家に帰り、家計のため再び坑夫となった。
落盤事故に遭うが一命を取り留め、父が亡くなると幼い弟たちを親戚に托し、文兵衛という弟と諸方へ炭鉱出稼ぎすること3年・・・・・・ 実地に筑豊二州に跨がれる炭脈や炭質をしらしむる基となって、之がために後年、少なからざる利益を得た。
1866慶應2年、小倉炭鉱で働く。
1867慶應3年、炭鉱開鑿を行うが失敗、菜果の行商などして生活をたてる。
1868明治元年、直片町の山部で炭鉱経営をするが、資金が少ないうえ機械もなく失敗。
1874明治7年、炭鉱で働く。
1876明治9年、糸田炭鉱を開鑿。当時としては新式の水揚げ機械を携えた片山逸太の招きに応じ、糸田炭鉱の企業に従事。
利益を得ると、長崎で水揚げ機械と巻き上げ機械を買い入れ、直片町切りぬきで起業。これに嘉蔵ら弟たちが加わり4兄弟力をあわせて採掘する。
1877明治10年、西南戦争。
直方炭鉱経営、石炭価格高騰。太助、数千円の利益を得る。ただし戦後は下落。
1878明治11年、竪坑が陥落。経営は一朝にして泡沫に帰し、一家離散となる。
1879明治12年、*帆足義方の帆足炭鉱の納屋棟梁として働き炭鉱を盛大にする。
*帆足義方: 鉱業家。士族の出で戊辰戦争のとき仁和寺宮に従って出陣。西南戦争では熊本城に籠城。その後、公用で筑前地方を通過中、土地の住民の話から石炭鉱脈を発見、やがて炭鉱業に乗り出す。
1880明治13年、香月炭鉱を開鑿。
この年、弟・嘉蔵25歳で失明。しかし、炭鉱運営に携わり一家の力となる。
1881明治14年、城之前炭鉱開鑿。
1885明治18年、大之浦炭鉱を開鑿。この頃から石炭価大暴落。
1887明治20年冬、石炭価、次第に快復。
三井・三菱をはじめ炭鉱経営にのりだし筑豊五郡の山河は活況を呈する。
1888明治21年、菅牟田鉱区を購入。
菅牟田炭鉱は炭質炭層ともに良好で三菱が太助に割譲を求めてきた。また、負債も少なくなかったが将来を考え手放さなかった。
3月、大之浦小学校開設。校舎を大乃浦坑所に新築。
川端俊達を校長に迎え、坑夫・職工の子弟20余名の児童、授業を開始。福岡県の私立小学校の嚆矢。
その後、万の浦・岩屋・菅牟田などの各坑所にも校舎
?年、 福岡工業高校、採鉱科新設のため筑豊鉱業組合より3万1千円を寄付。
1890明治23年、井上馨の知遇を得る。
井上が農商務大臣を辞め西国を旅行中、貝島家に立寄った縁である。この年、最初の恐慌がおきた。
1891明治24年、不況で経営が悪化。井上が貝島に三井を紹介、井上の旧主・毛利家から融通をうけ事業を拡大することができた。
1894明治27年、日清戦争。
戦争時の単価暴騰によって事業を拡大、資金を返済することができた。
当時、貝島家の開発鉱区は大乃浦・菅牟田・大谷・香月など約290万坪、未掘鉱区135万坪、炭坑夫7300名。
1898明治31年、大辻炭鉱を購入し、貝島鉱業合名会社を起こし、直営倉庫なども経営。その後も鉱区を拡大する。
2月11日、英照皇太后死去につき減刑・特赦あり。
身元引受人ない囚人の身元引受を福岡県知事・岩村は太助に相談。太助は弟・嘉蔵に托す。
嘉蔵は香月炭鉱に保護所を設け、自ら所長となり免囚176名を受けいれ面倒をみる。
1899明治32年、資金200万円、貝島鉱業合名会社を設立。42年、50万円増資。
1904明治37年、日露戦争。
日清・日露戦争直後、猛烈な企業熱、生産拡大のあと、反動恐慌に見舞われる。
1906明治39年、南満州鉄道株式会社の設立委員になる。
南満州鉄道: 日露戦争後、日本が獲得した大連・奉天などの鉄道および支線、付属地、炭鉱などの付属事業を経営するための半官半民会社。総裁、後藤新平。満鉄。
1909明治42年、会社を株式会社に改組。
1910明治43年、筑豊石炭鉱業組合直方会議所を建てる。
1912明治45年、訓練を目的に直方救護練習所を開設。
練習所は昭和43年に閉鎖されるまでに作業隊員9682人・整備員480人の基礎訓練修了者をだした。
1913大正2年、桐野発電所を開所し、大之浦炭鉱と大辻炭鉱に電力を供給する体制を整えた。
1916大正5年、菅牟田尋常小学校を開設
11月1日。75歳で死去。
直方市石炭記念館: 筑豊石炭鉱業組合直方会議所の建物と救護練習所の跡地を利用して、昭和46年、石炭記念館を整備。記念館から跨線橋をくだった近くに貝島太助邸跡、その先に堀三太郎邸跡があるが、ともに筑豊の炭鉱経営者として名をあげた人物である。
貝島邸跡: のち多賀町(たがまち)公園となり、太助の銅像が立っている。また、宮若市には、貝島炭鉱の足跡を残すために設置された宮若市石炭記念館がある。
成金饅頭: ウズラ豆の投機に失敗した穀物商が、処分に困りウズラ豆の餡で饅頭を製造。おりしも炭鉱景気で甘い物が良く売れ、成金ブームにあやかり成金饅頭と評判になった。一説には、炭鉱王貝島太助が名付けたとも言われる。
参考: 『現代実業家立身伝』氷川隠士1912磯部甲陽堂 / 『明治時代史大辞典』2012吉川弘文館 / 『日本人名辞典』1993三省堂 / 『貝島嘉蔵』1918吉村誠 / 『福岡県の歴史散歩』2008福岡県高等学校歴史研究会編 /『近現代史用語事典』1992新人物往来社
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コメント
こんばんは、その柴五郎ファンです。先日はお会いいただいて、夢見心地で、とっても幸せを感じたひとときでした、本当に今後ともよろしくお願い致します。ありがとうございました。貝島さんのこと、初めて知りました。私の父は満鉄で働き、戦後は田川の炭鉱で働き、何度かその頃のこと聞かせてもらったことがあります。父が他界した今、もっと真剣に聞いておけば良かったと、思ってもどうしようもないことを思っています。明治人の遺された生きざまをもっともっと学んでいきたいです。
投稿: 福田道子 | 2019年12月31日 (火) 20時43分