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2019年12月21日 (土)

黄牛病(肝臓ジストマ)発見・津山の偉人、高屋養仙(宮城県)

 もうすぐ年明けだが、良くも悪くも社会の進歩は高速になっている。ゆっくりでいいのにと言っても、ガラ携の筆者らアナログ世代は置いてきぼりの感がある。しかし「農業の未来 若い力で・第1回大賞決定」特集(2019.12.19毎日新聞)を読み、未だ大丈夫と思えてきた。

 [大賞] 栃木県立鹿沼南校(鹿沼市):野菜研究班
  ――― 来たれ「農業女子」新洗剤開発。栽培や収穫でトマトをいじると手が真っ黒に汚れ臭くなる「トマトタール」・・・・・・これを落とすのに、身近にすばらしいものがあった。地元の「鹿沼土」。農家のお年寄り「昔はこれを洗剤に使っていたんだよ」・・・・・・汚れや臭いとりに有効なことが分かった。人に優しい天然の研磨剤だ・・・・・・
 [奨励賞]4校の一、宮城県農業高(名取市):作物専攻プロジェクトチーム
  ――― 仙台藩時代から続く酒米「蔵の華」。栽培が難しく作る農家はほとんどいなくなったが、東日本大震災被災地を励まそうと、先輩たちが純米酒「復興太鼓」の原料として生産を継続。これを無肥料・減農薬栽培にバージョンアップさせた。
 産廃扱いされていた大量の米ぬかを無化学肥料に改良・・・・・・ 生産コストの4割削減を実現した。伝統の酒米が、未来投資型農業の扉を開いた。
 
 伊達政宗以来の仙台藩医・高屋養庵も「蔵の華」の酒を嗜んだかもしれない。その養庵の子どもが明治初期、奇病・肝臓ジストマの発見と予防に一生を捧げた高屋養仙。その高屋に協力、自ら献体を申しでたのが鈴木安右衛門である。

           高屋 養仙  (たかや ようせん)

 1831天保2年2月2日、藩医、高屋養庵の第5子として仙台北一番町で生まれる。
     のち、兄・松庵の養嗣子となり医業を継ぐ。
 1866慶應2年、藩医となる。本吉郡麻崎村黃牛(*津山町)で266石を領した。
        *津山町: 宮城県北東部。東浜街道・一関街道の交差する宿場町。北上舟運の要地。

 1871明治4年、 廃藩置県。
 1874明治7年、旧家臣の請を受けて黄牛に開業。地方病の黄牛腫(黄牛病)に注目する。
    当時、村では黄牛腫の原因が分からず恐れられていた。

 1883明治16年、宮城医学校教授・柴田勝央は高屋養仙がその解明に苦心しているのを知り積極的に協力。
 1884明治17年、郡長を通じ、県令・*松平正直に請願書を提出。柴田の協力を得て、初めて肝臓ジストマの疑いがあることがわかった。
   9月21日、柴田が黄牛に来、養仙の長男*安定も同道したが判らなかった。
  10月24日、柴田は顕微鏡を携行し11月10日まで滞在して、患者の糞便からジストマ虫を発見して*肝臓ジストマ症であることを確かめた。
  *肝臓ジストマ: 肝臓に寄生する寄生虫。淡水貝、淡水魚を経て人体にはいり、肝臓肥大・夜盲症・むくみなどの病気を起こす。

  *松平正直: “第5代仙台市長はもと幕府の旗本、和達孚嘉(宮城県/静岡県)”
        https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2018/11/post-4d60.html
 
  *柴田勝央: 宮城医学校教授兼病院一等院医。のち陸軍軍医官。
       陸軍医学校(東京新宿区戸山町、旧帝国陸軍の医学系の教育機関)。
       柴田勝央(一等軍医正):明治39年5月~ 8月。
       森林太郎(鴎外)軍医監:明治39年8月10日~

  *高屋安定: 養仙の子。父の志を継ぎ宮城医学校卒業後、医補となり、柴田に従って黄牛の調査を助けた。後、登米、志津川病院の副院長、地方病原取調、本吉郡検疫医、本吉郡南方医界副会長などを勤めた。

 1886明治19年9月27日、*鈴木安右衛門死去。
    柴田勝央は助手・中村仲篤とともに、柳津村・福田寺で執刀。肝臓ジストマ症であることを確認した。

   *鈴木安右衛門:高屋養仙の旧家臣。エトロフに同行、重態となるや書面で郡役所に献体を申し出た。柴田がその屍体を解剖し、肝臓ジストマ症であることが確かめられた。

 1887明治20年9月、養仙は経験的に十全な予防法をつくり、郡長の認可を得、さらに県知事から内務大臣にその実地に関する指示を仰いだ。
 中央衛生委員*ベルツは岡山県での経験がある山形仲芸の助言もえて、現地で精力的な調査を行った。

    *ベルツ: ドイツの医学者1849~1913 明治9年、東京医学校に招かれて来日。生理学・産婦人科ほか担当。日本の風土病に注目し、脚気・恙虫病などを研究、肺ジストマを発見した。『ベルツの日記』はよく知られる。

 1889明治22年8月、調査の結果、締切沼はもちろん麻崎横山の両村は小川にいたるまで一切の魚介藻類の生食を禁ずる徹底した予防法が確立した。

    “宮城縣下黄牛における肝臟「ヂストマ」の記錄(高屋養仙手記) / 靑木大輔
       「中外医事新報」1235~1237号(国会図書館デジタルコレクション)

 1902明治35年9月19日、死去。72歳。黄牛音声寺に葬られた。

   参考:『宮城縣史・29』1986宮城県 / 『外国人名辞典』1993三省堂 / 『日本地名事典』1996三省堂 /  インターネット

 

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