大正期、少年と大人も夢中にさせた立川文庫(兵庫県・大阪府)
琵琶湖を訪れ、滋賀県愛あふれるバスガイドさんが地名をあげるごとに「ああ知ってる、ここがそうか」。 秀吉が木下藤吉郎の時代にき築いた長浜城、石田三成の佐和山城はこの辺り・・・・・・ 近畿地方は戦国の世で戦いの地であったばかりか、古代から開けていた歴史の宝庫と再確認した。
ところで、戦国の世は豪傑や勇士が活躍したが、彼らの痛快無比の物語が世に流布したのは歴史書よりも、一世を風靡した講談叢書・立川文庫のおかげのようだ。
――― (松本清張) 大人の小説の面白さをはじめて教えてくれたのは「立川文庫」である。これは教科書の下にかくして併読した。今日、僕が近眼になったのは、親父にその発見されるのを恐れて、暗いところで、小さな文字を凝視したおかげである。
猿飛佐助や水戸黄門の超人的な活躍、波乱万丈の筋、あの軽妙な会話、いつも危険にさらされて危ないところで助かっている美女、それらは少年のころに「小説」の面白さを教えてくれた。
『坊ちゃん』『草枕』の面白さを理解するには、この立川文庫の履歴が必要ではなかったか、とさえ思うのである(「松本清張記念館館報」2013-08)。
ちなみに立川文庫は、国会図書館 http://kindai.ndl.go.jp/ で読める。
立川 熊次郎 (たつかわ くまじろう)
1878明治11年5月15日、兵庫県揖東郡宮田村(姫路市勝原区宮田)の富農、立川嘉一郎氏の長男に生まれる。兄弟姉妹に、姉こすみ(夫・製粉業井上寅之助)、姉かじ(夫・増進堂・受験研究社創立岡本増次郎)、弟捨蔵(立川文明堂共同経営)がいる。
1888明治21年、父が堂島米会所での米相場で失敗して財産を失い、勝原村立・育英小学校(姫路市立旭陽小学校)を中途退学、奉公に出る。
1893明治26年、貧困のなか、姉こすみが製粉業・井上寅之助と結婚したことを機にかんぴょうの販売に打ち込む。勤勉で、倹約家で、肉体も頑健な人物だったという。
1897明治30年、よく働いて金を蓄え、姉の嫁入り道具を井上家に納入したという。
1898明治31年、義兄井上が飾磨郡津田村(姫路市飾磨区)に設置した水車小屋で働く。
1900明治33年、姉かじの夫・岡本の誘いで「岡本増進堂」(大阪市西区新町)に身を寄せ従業員となる。増進堂は、草双紙の一種、赤本を小売店・貸本屋におろしていた。
1901明治34年、貸本屋への卸業務等を務め、書籍業界・出版業界について学び、唐物町四丁目に文明堂を創立。
1903明治36年、大阪へでて、井上盛進堂という本屋を開く。
立川熊次郎個人名義で『大阪名所案内 附畿内名勝記』(有終館)出版。
事業を出版業に拡大しようとしていた。このころ、妻・朝尾と結婚。
1904明治37年3月、大阪市東区唐物町(中央区南本町)に小店舗を借り、
「立川文明堂」を創業。当初は取次業で、熊次郎は大風呂敷で本を背負っては売り歩いた。少しづつ出版に着手、日露戦争中のことで『日本軍歌集』、詩吟のサワリを集めた『冠吟一万集』などをだし、かなり売れたという。
1906明治39年、『日英手紙之文』(英語研究会)。『最新實測大阪市街全圖 明治三十九年一月改版』(地理専攻會)など個人出版。
1907明治40年、『改正日本法律全書』(立川熊次郎編、立川文明堂)。『袖珍軽便 改正日本六法』(立川熊次郎編、立川文明堂)。
1908明治41年、『新案裁縫全書』(裁縫講習會)。『新撰はがき用文』(山田霞城)。『和洋實用家庭料理法』(割烹講習會)を個人出版。
1909明治42年、大阪市東区博労町(中央区博労町)4丁目に移転。
1911明治44年、大阪の講釈師*玉田玉秀斎と山田阿鉄(おてつ・山田酔神)が出版企画を携え交渉に現れ、覚書を取り交わす。
――― 覚書は新作であること。分量は、1冊あたり20×20行原稿用紙で300枚。原稿料は、1冊14円、原稿用紙は作者負担。定価は25銭。売上の悪い作者は休養。版権は立川文明堂のものとの旨であった。
同企画は、玉秀斎が講釈する講談を、阿鉄、その弟の山田唯夫を始めとする「日吉屋講談本製造工場」のメンバーが集団で執筆するというものであった(ウイキペディア)。
*玉田玉秀斎: 立川文明堂の講談本の大半を講述した玉田玉秀斎は二代目で、本名を加藤万次郎といい、京都の神職の家に生まれ、講談が好きで、それが嵩じて先代・玉秀斎の門にはいったという。
同年10月、第1編『 諸国漫遊 一休禅師』を発売。第2篇『諸国漫遊 水戸黄門』、第4篇『荒木又右衛門』、第6篇『岩見重太郎』、第9篇『宮本武蔵』と連打し、爆発的な好評を呼んだ。
創刊当初から奥付が不正格なため、創刊は5月とも10月ともされている。最初の頃は、速記講談本であったが、しだいに玉秀斎の内妻*山田敬、敬の長男・阿鉄(男なので鉄夫と称するときも)らの家族ぐるみの集団創作の形をとり、話をふくらませて面白く作りかえていった。
*山田 敬: 愛媛県今治の廻船問屋・日吉屋こと山田丑蔵の一人娘。丑蔵は幕末には志士をかくまい、維新後は土地の顔役となった剛腹な人物。
敬は、新興商家で豊かな開放的な環境で育ち、美貌にも恵まれ・・・・・・ 束縛のない、贅沢な生活が敬の性格を華美に・・・・・・ 敬は結婚し子どもがあったが、巡業にきた玉麟(玉秀斎)と大阪へ逃げた・・・・・・ 敬の長男阿鉄は歯科医、三男顕はあ税官吏、四男唯夫は会社員になり、玉秀斎の人柄になじんで、大阪でそれぞれ生計を立てていた・・・・・・
敬は時流を見抜く目を具えており、読書家でもあり、材料も多い玉田を速記講談に向かわせた・・・・・・ やがて速記講談から書き講談になり、玉秀斎の講談本がなくなると、阿鉄は、自分たちで筆記すればいいではないか、といい実行すると、速記者による講談本よりも好評であった。
筆記するあいだに阿鉄の潤色が加えられ、話はずっとおもしろく、読みやすくなったからである(『立川文庫の英雄たち』足立巻一1987)中公文庫)。
当初の読者層は地元大阪の商店の丁稚、少年読者層が多かった。やがて全国に普及していった。
――― 創業の当初は美文物から講談小説類を出版したが、一躍「立川文庫」で名を挙げた。同文庫は二百篇を算し確かに其の当時の大量生産で、今日君が百万の財を蓄積したのは実にこの文庫の賜である(ブログ「関西の出版社」)。
1913大正2年12月、『立川文庫第四十編 真田三勇士 忍術名人 猿飛佐助』発売。
マンネリを打破するとともに「猿飛佐助」のキャラクターを誕生させた。
『猿飛佐助』の人気はすさまじく、翌年2月には「復刻版」が出ている。
真田十勇士がつぎつぎ生み出され『猿飛佐助』と『霧隠才蔵』は、圧倒的な人気を集め、二人の忍術使いはまたたく間に少年たちのヒーローとなった。
――― 地域創成研究センターと図書館は、地域貢献事業の一環として平成21年、今治市で愛媛大学地域創成研究センターシンポジウム・図書館企画展「講談『猿飛佐助』と今治藩家老 江島家文書展」を開催・・・・・・ 上方講談師・旭堂南海さんによる「講談『猿飛佐助』」を参加者に楽しんでいただいた後、シンポジウムを開催。「佐助」は、今治出身の山田阿鉄一族が執筆した立川文庫で人気の登場人物であり「今治で『佐助』をブームにし観光や町おこしの起爆剤にしてはどうか」などと盛り上がりました(愛媛大学「図書館だより」第88 号)
――― 真田十勇士は、幸村を助けて大坂夏の陣で大活躍する架空の豪傑たちである・・・・・・ 実在の人物をモデルとしたらしい者も見受けられるが、「十勇士」としての大活躍は、すべて『立川文庫』がつくりだした虚構だ・・・・・・ ポケット本で200余遍が出され、少年や大人たちにも大人気を博した(『歴史と文学の回廊』近畿編1996ぎょうせい)。
1914大正3年、『海上衝突予防法解説』(田中久男) 個人出版。
1919大正8年、玉田玉秀斎、コレラに感染して避病院で孤独な急死をとげた。
忍術ブームで数多くの類似本が刊行されはじめ、また乱作によるマンネリズムも重なって玉秀斎死後、売れ行きが低下し人気を失っていった。
――― 時代考証など一切無視の荒唐無稽さから粗製濫造の弊害が指摘されもするが、大正期の大衆文化のにない手として、少年読者に物語世界に遊ぶ楽しさを教えたばかりでなく、昭和初期の大衆文学黄金時代へのかけ橋となった点でも評価される(『民間学事典』1997講談社)。
1921大正10年、創作工房を支えてきた山田敬も亡くなり、工房は自然消滅。のち、版権はすべて講談社に譲渡された。
「立川文明堂」の事業は、実弟の立川捨蔵に経営参加させ学習参考書・教科書出版にシフトする。 『近畿名所一日の遊覧 附皇陵巡拝案内』野田彩霞。個人出版。
1922大正11年、『朱熹集註孟子』秋梧散史。個人出版。
1923大正12年、立川文明堂を南区安堂寺橋通(中央区南船場)に移転。
――― 出版界の推移に鑑み令弟捨蔵君(45才)を迎へ兄弟相協力して小中学校の教科書参考書を発行し同業者間における圧捲的業績を納めてゐる。大阪書籍雑誌商組合、大阪出版業組合の評議員たること多年、また株式会社大阪参文社の取締役として斯界に重きを為してゐる(『日本出版大観』1930)。
1932昭和7年1月9日、死去。53歳。
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