明治・大正期の歴史家、原勝郎(岩手県)
二度目の東京オリンピック開催2020年の年明け。
今年こそ自然災害・人災もない年になりますよう願いつつ、手元の岩手県ファイルをみると、2011平成23年3月11日・東日本大震災後のスクラップがあった。
――― 2012.4.02 “待ちに待った再開”岩手県沿岸の久慈市と宮古市を結び、東日本大震災で線路が流されるなどの被害を受けた第三セクター・三陸鉄道北リアス線で1日、不通になっていた陸中-田野畑間が開通した(毎日新聞 以下同じ)
――― 2019.11.10 岩手県大槌町、2014年もここを通った(森まゆみ)。その時は古い庁舎がまだ残っていた。1万6千人が暮らした沿岸の町は東日本大震災の津波に襲われ、1286人が犠牲となった・・・・・・ 宮城県三陸町は防災庁舎を残したが、大槌町は町役場を壊す決断を・・・・・・ 大槌町では犠牲者の家族の聞き取り、記録誌「生きる証」を作成した。
――― 2019.12.10・12.19 毎日スポーツ人賞・文化賞、岩手県釜石市。
東日本大震災で1000人以上が犠牲になった。市は、町のシンボルのラグビーで、もう一度一つになろうとW杯開催地に立候補。被災した小中学校の跡地に、鵜住居(うのすまい)復興スタジアムを建設・・・・・・スポーツがもつ力を証明した・・・・・・開催都市として、東日本大震災の復興支援に対する感謝や、おもてなしの心を世界に発信・・・・
――― 2020.1.1 東京五輪の聖火リレーは121日間で全47都道府県を巡る・・・・・・3月ギリシャ・オリンピアで採火・・・・・・ 岩手(6月17~19日)東日本大震災の津波に耐えた奇跡の一本松や三陸鉄道リアス線などを回る。
――― 徳川時代には太平につれて偏僻の奥州も可なりの進歩をなし、人国記に「名人ノ名ヲ呼ブ程ノ人は不得聞ヲ也 末代ヲ以テ如此成ベシ」と一言で以てけなされて居るにも拘わらず、多少の人材を出し、日本全体の文明にも少は貢献する所あった。
けれども大勢はやはり足利時代の通りで、絶えず上方の後塵を拝し来たり、それが明治時代まで続いている(原勝郎・『奥州沿革論』日本歴史地理学会編1916仁友社) 。
原勝郎の父は南部藩家老・原勝多。
専攻は西洋史だが日本中世史にも深い関心をもち、中世を暗黒時代とするのではなく、中国からの輸入文化に依存する状態を克服、独自の民俗文化を発展させた時代として歴史的意義を積極的に評価。著書は今も読み継がれている。
原 勝郎 (はら かつろう)
1871明治4年4月15日、岩手県盛岡新築地(盛岡市大通三丁目)に生まれる。
?年、 岩手県尋常中学校(盛岡第一高等学校)、第一高等学校卒業。
?年、 帝国大学文科大学(東京大学)入学。
東大では、日本にはじめてランケ流の近代的史学研究法を導入したL.リース(ドイツの歴史学者)、坪井九馬三(つぼいくめぞう 歴史学者)、重野安繹(しげのやすつぐ 歴史家・漢学者)らに学んだ。同期生は黒板勝美(古文書学、エスペラント語)、内田銀蔵(日本経済史家)、喜田貞吉(歴史学者「歴史地理」創刊)らそうそうたる歴史家が名を連ねていた。
1896明治29年、帝国大学文科大学史学科卒業。大学院に進む。
この年の卒業生には、高山樗牛(文学者)、内田銀蔵、幸田成友(こうだしげとも 露伴の弟、歴史学者)らがいた。
招集。12月から1年志願兵として近衛歩兵第四連隊に入営。
1899明治32年2月、陸軍歩兵少尉に任官して除隊となる。
9月、第一高等学校教授。
1902明治35年10月、「日本中世史」により文学博士となる。
1904明治37年、冨山房より『日本中世史』刊行。日本史へ「中世」の歴史概念を導入したことでも知られる。比較史的視点に立ち、内田銀蔵の『日本近世史』と並び称される社会文化史的名著。
1906明治39年、イギリス・アメリカ・ドイツに留学。
この年、京都大学文科大学開設。東京帝国大学とは違う特色を持つように設置され、新聞社に務めていた内藤湖南(東洋学者)が、支那学教授として招かれたりした。そのような独自の学風の中、原は西洋史学の初代教授として赴任する。
1909明治42年、帰朝。
京都帝国大学文科大学教授に就任。西洋史を担当、史学科創設に寄与。
19世紀後半の以後のヨーロッパ近・現代史『世界大戦史』刊行。大正9年から3年半講義したものが元になっている。
1912大正1年、『昨年の欧米:一九一一年』(冨山房)
1913大正2年、『吾妻鏡』の史料としての価値と限界について論考。
――― 原勝郎氏の研究は「吾妻鏡の性質及び史料としての価値」と題して『史学雑誌』第9編に、その研究は専ら内容の研究によりて冷静なる批判を下したるものに比して、尤も価値ある研究なり(八代国治『吾妻鏡の研究』)
1914大正3年、『南海一見』(東亜堂書房)
1915大正4年、『欧米最近世史十講』(弘道館)
1917大正6年、三条西実隆の生活を描いた『東山時代に於ける一縉紳の生活』(「藝文」京都大学文学部)。
1920大正9年、“An Introduction to the History of Japan”
1922大正11年~13年、京都大学文学部長、学部施設の充実に尽くす。
和辻哲郎(倫理学者・文化史家)、西田幾多郎(哲学者)らと同僚になる。
日本通史を英語で執筆・出版したことでも知られる原の業績は、西洋史だけにとどまらず日本史にも及ぶ。戦前から史料を収集、西洋史の研究を通じて日本にも西洋史の中世と同じようなものがあったことを指摘。原の学問は史料に直接あたることによる。
1923大正12年夏、胃腸を病むも幸いにして癒る。
1924大正13年1月12日、直腸癌より癌性腹膜炎を併発。
1月14日、逝去。享年54。
告別式を京都大学文学部陳列室において行う。墓所は盛岡市の法華寺。
原はメスのように鋭い判断力と理解力を持つと言われた。
――― 短駆、ステッキ、はげあがった額、空中を行く猛禽のように歩み、するどい視線がすれちがう私をなでるのは西洋史の教授、原勝郎氏であった(吉川幸次郎手記)。
その他著作:『独逸帝国史』・『西洋中世史概説・宗教改革史』1931同文館・「鎌倉時代における文化の発達」・『欧米最近世史十講』など。
参考: 国会図書館デジタルライブラリー / <盛岡市HP>他インターネット。なお、著作は再刊され、国会図書館デジタルライブラリーでも読める。
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