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2020年1月25日 (土)

明治の社会事業家、瓜生 岩(福島県)

 1873明治6年、日本で最初の都市公園が整備された。
    浅草公園(浅草寺)・上野公園(寛永寺)・芝公園(増上寺)・深川公園(富岡八幡)・飛鳥山公園である。この5ヶ所に限らず公園や各施設、寺や神社の境内で、よく銅像を見かける。
 それらは皇族・軍人の勇ましい騎乗姿、実業家・学者などの胸像など男子が多い。それは、女子の活躍の場がすくなかったせいもあるのだろう。
 そうした、富国強兵に走り対外戦争をしはじめた明治日本で建てられたにもかかわらず、浅草公園の座像は、ふくよかな笑顔の小柄な老婆、瓜生岩の座像である。
 浅草公園の銅像制作は大熊氏広。建設に関わったのは渋沢栄一(建設委員長)、委員は吉井幸蔵・三島弥太郎・後藤新平・箕浦青四郎、発起人は土方男爵夫人・板垣伯爵夫人らである。
       “大村益次郎像制作者・大熊氏広略伝”
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          瓜生 岩       (うりゅう いわ)

 1829文政12年2月15日、福島県会津小田村(喜多方市)の油商・若狭屋、渡辺利左衛門と熱塩加納村出身のりえの長女に生まれる。通称、岩子。
 1833天保3~7年、天保の大飢饉。
    会津地方も大飢饉に見舞われたが、店は無事だった。
 1837天保8年、父が病死。そのうえ火災で家を失う。幼い岩子と弟は母の実家、熱塩加納村の温泉宿・山形屋(瓜生家)に引き取られる。

 1842天保13年、岩子は会津若松に住む叔母の夫、会津藩御典医・山内春臈(しゅんろう)の家に行儀見習いとして預けられる。
   ――― 春臈は蘭学・和漢の学に造詣が深かった。春臈は産婦人科医としてもたけていて、会津領内に間引き、堕胎の多いことを憂え、子どもを間引こうとする者には、米や金を渡し、何とか育てるように説き、堕胎防止に尽力していた。
 岩子はここで診療の手伝いをしながら、生命の尊さを教えられ、世の中の仕組みや、弱者である親子の救済を自然と身につけていった(星倭文子『物語明治・大正を生きた女101人』)。

 1846弘化3年、17歳。呉服問屋の手代、佐瀨茂助と結婚。会津若松の横三日町に小さな呉服店を開業。1男3女に恵まれる。
 1856安政3年、夫が結核に罹ったうえ、番頭に金を持ち逃げされる。
    岩子は家族を養うため、呉服の行商を始める。
 1862文久2年、夫・茂助死去。
    翌年、母も病死。岩子は子を連れ実弟が継いだ熱塩に戻り、瓜生姓を名乗る。
    不運を嘆く岩は、菩提寺の和尚から「世の中にはもっと不幸な人がいる。その人たちのために尽くしなさい」と諭され、人のために身を捧げる覚悟を決める。
 岩子は子どもの行く末を考え、長女を松平容保の義姉・照姫の御殿に奉公に、長男は家老の小姓、次女は養女、三女は実家に預ける。
 自身は行商を続けながら、合間に近所の娘たちに裁縫を教え、困っている人にはなけなしの金を渡すなど出来るかぎりのことをした。

 1868慶應4年、戊辰戦争。会津藩は悲惨な敗北を喫する。
    岩子は敵味方なく負傷者に手当をほどこし、山内春臈の家で習い覚えた知識をいかして、救護活動にあたる。
    敗戦後、孤児が城下をさ迷っていたので、岩子は民政局に願い出て子どもたちを旧藩校・日新館に収容。幼学所を開き、読み書き、習字、珠算などを教えた。
 1869明治2年、喜多方小田付村に私費を投じた幼学校の校舎が完成する。
 1871明治4年、小学校令が発布され、幼学校は閉鎖。閉鎖後は、一般向けの職業教育、貧困者救援の場として活用。
    同年、江戸で謹慎となっていた長男・祐三が会津に帰郷。彼から東京深川に「救養会所」という貧者救済施設があるときき、岩子は上京。救養会所を手伝いながら、運営・看護などをまなび半年後、会津にもどる。

  ?年、 教育所を設立。喜多方近郊の廃寺、長福寺を借りて独力で設立。
    職業教育にも力を入れ、幼少者から老人まで身を寄せ、出獄者も預かった。
    長男・祐三は東京で陸地測量技術などを学んだので青年達に教えた。また、会津北部の測量班長として活躍、母の事業を助けた。
  ?年、 鳳鳴会: 子どもの保護と救済をめざした団体。

 1887明治20年、折田平内福島県知事の要請で活動の拠点を喜多方から福島に移す。
 1888明治21年、磐梯山噴火。岩子は現地に赴き、罹災者の救助活動をおこなう。
 1890明治23年、帝国議会に「婦人慈善記章の制」を設けるよう請願書を提出。不採用であったが、日本の女性の国会請願第一号であった。
 1891明治24年3月、上京。日本初の社会事業施設である東京府の養育院長・渋沢栄一の依頼で、児童の教育係長として活動する。
    養育院では捨て子、遺児、迷子の世話に専念、家庭的な環境作りにつとめた。華族や大山捨松などの慈善会があり、岩子は上流婦人たちと交際があったが、言葉は会津弁でとおした。慈善バザーでは、岩子も手作りの水飴などを出品。

 1892明治25年、東京養育院を辞め会津に戻る。
    北会津・耶麻郡・河沼郡に「育児会」をつくる。
    「喜多方産婆研究所」を喜多方の自宅に設立。野口英世の母シカはここで産婆の資格を取得した。
 1893明治26年、若松に貧困者を無料で治療する「私立済生病院」設立。
    その基金は、地元や東京で得た知己や政府高官婦人、宮中女官らの援助。大山捨松は病院開設に大きな力となった。しかし、開業医の反対にあい、翌年閉鎖。

 1894明治27年、日清戦争。
        “日清戦争と瓜生岩(福島県)”
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    「瓜生会」を設立: 慈善事業の普及のため、仏教婦人会、有力者に呼びかけ、貧民の救済・病人の看護・老人保護などの社会事業が目的。
  水飴作りにこっていた岩子は、東京下谷根岸に、水飴改良飴糟利用法の伝習所を設立。
  そのほか、屑のサツマイモを使った水飴の製造など、廃物を利用したさまざまな食品を考案。貧しい人々から「仏の岩」と慕われた。

 1896明治29年、女性としてはじめて藍綬褒章を授与される。
 1897明治30年1月、東京から福島に戻ったが、疲労から心臓病を発症。
    4月19日、死去。68歳。
      葬儀は福島の長楽寺で営まれ、岩子の銅像と遺髪を納めた塚がある。
      遺骨は喜多方市熱塩加納町の示現寺に納められ、墓碑は柴沢栄一。

 1899明治32年、浅草公園に銅像が建てられる。
   なお、6ヶ所にある岩子の銅像は、いずれも木綿の着物姿で穏やかな表情である。

   参考: 『明治・大正を生きた女101人』(星倭文子)新人物往来社2014カドカワ / 『鳩ヶ谷市の文化財』1987鳩ヶ谷市(現川口市)文化財保護委員会

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 2020.01.25
       春は選抜から♪
 暖冬とはいえ寒さの季節、春の甲子園、選抜のニュースがでると気分が明るくなる。
第92回、21世紀枠は北海道・帯広農業高校(初出場)、福島・磐城高校に決まった。
 福島県いわき市にも昨年、台風19号が襲来し大きな被害を受けた。選手は練習場所確保など地元住民の支援を受け、自分たちもボランティアに汗を流した。そして、選手の大半が幼い頃に東日本大震災を経験している。
ガンバレ磐城の選手!全国球児!

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