房総に根ざして明治を生き抜いた、重城保(千葉県)
ちかごろ人に会うたび、「踏切に名前があるの知ってる?」と聞くが殆ど知らない。自身も『地名崩壊』著者・今井恵介先生の話を聞くまで知らなかった。
踏切の名前は鉄道会社によるそうで、味気ない数字もあるが、「きられ踏切」という恐ろしげなのもある。それは、房総半島中西部、東京湾に面した富津市にあり、きられは刀で斬るの「きられ」、近くに飯野藩(二万石)の処刑場があったという。
20年ほど前、『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』の史跡を訪ねて富津へ行った。今と違いネット情報も見ずにタクシーで回ったが見つからない。しまいに運転手さんも一緒に聞き回ってくれ、おかげで碑を見つけられた。その上、料金をオマケしてくれた。房総半島富津は景色もよいが人も親切、良い所だ。
ペリーの黒船来航のころ、会津藩は幕府から房総湾岸警備を命ぜられ、富津と竹ヶ岡に陣屋を構え、家老、番頭以下船方役まで百人以上の家臣が勤務。その後、両陣屋の人員は、家族も含め計1400人にもなった。柴五郎の父・佐多蔵も家族を連れての赴任、柴四郎のち東海散士はここで生まれた。
富津岬の大型展望台からは東京湾への入り船、出船、三浦半島の山々などが、手にとるように眺められ、黒船侵入は直ぐ分かる。黒船をみたら直ちに三浦半島へ舟をこぎ出す様が手にとるようだ。「ペリー来航の図」などに見る海岸を固める数多い小舟がそれだ。
富津の明治維新を『富津市のあゆみ』でみると次のようである。
――― 大政奉還のさい、富津市域には、八九の町村があって、飯野藩(下飯野村など六か村)、佐貫藩(佐貫町など五三か村)、前橋藩(富津村など21か村)の領地と、旗本の知行所(一二か村)でその中に天領(幕府の直轄地)も・・・・・・ 王政復古後も幕臣や諸藩士で徳川氏に心を寄せる人々がいた・・・・・・
戊辰の役、江戸に近い富津は、この戦争の渦にまきこまれ、直接の争乱場所となったのが、富津と佐貫で、田植えのころです。・・・・・・ 情報伝達機関の少なかった当時、うわさがうわさを呼んで、騒々しい世の中でした。
――― 政府は、幕府領と旗本知行所を取り上げて、府、県として直接支配、藩は、まだ独自の政治をしていたのです・・・・・・ 富津市地域にあった前橋藩領と旗本知行所は、安房上総知県事・柴山文平の支配下(のち宮谷みやざく県)・・・・・・
――― 安房・上総の一六県を管轄し木更津県となり、宮谷県権知事・柴原和(しばはらやわら)が木更津県権令になる。
柴原 和 (しばはら やわら)
柴原は、明治4~13年まで9年近くも房総にあり、木更津県・印旛県・千葉県の権知事・権令・県令をつとめ、上からの開明化政策を強力に実行した。
木更津県権令時代の柴原は「文学アリ、カツ直実ニシテ細事ニ渉ル」、部下職員もよく「勉強、夜ヲ以テ日ニツグ」ように精励していた。
その事績をあげると、戸長・副戸長を「入れ札」で決めた/ 戸籍を調査するため区画を定めた/ 堕胎・間引きを止めるための育児事業/ 地券を発行ほか。
1877明治10年ごろ、柴原県政の開明的な性格は教育政策にもみられ、千葉県の公立小学校数はすでに900校、就学率は40%に達し、千葉師範学校を創設。
1878明治11年、千葉中学校を創設。
柴原の施策を代表するのは、地方民会(県議事会、大区・小区会議)の開設。各区から代議人が公選され、議長は県令または参事があたった。
同11年、はじめて議長公選が行われ、重城保代議人がこれに当選。柴原県政をささえたもっとも太い柱となった。
重城 保 (じゅうじょう たもつ)
1833天保4年4月、上総望陀(もうた)郡巌根(いわね)/高柳村、木更津市の庄屋の家に生まれる。
1853嘉永6年ころ、20歳代で父のあとを継ぎ、上総国望陀郡高柳村の名主となる。
重城は若いころから、大槻磐渓(おおつきばんけい)、嶺田楓紅(みねだふうこう)に学び、漢詩文と書に秀でていた。また、富津村(富津市)の儒者・織本東岳(おりもととうがく)、*南摩綱紀(なんまつなのり)、重野安繹(しげのやすつぐ)などとも交流が深かった。
このように重城は、文学の嗜みがあり経史に通暁、また算学を修めて記憶力も良かった。
“会津藩士のカラフト、明治の教育者・南摩綱紀(福島県) 2012.12.01”
1868慶應4~明治元年、戊辰戦争。
徳川軍府に、玄米300俵を提供して協力したが、敗走したため悔しがった。
1871明治4年、廃藩置県。
木更津県できる。重城は望陀(もうた)郡選出の代議人となり、郡中地券掛となる。
重城は文学の嗜みがあり経史に通暁し、また算学を修めて記憶力も良かった。
1873明治6年、千葉県設置。県議事会代議人、第四区(望陀郡)区長。
育児取締頭取などを歴任して、柴原県政の文明開化政策を推進させた。
1874明治7年8月、木更津県4大区・区長。
1877明治10年11月、はじめて行われた議長公選によって、千葉県県会議長に就任。良議員の評あり。重城の政治上の主義は、中立・温和的に改進を図るにあり。一地方の名望家にして一種の好漢と称された。
1878明治11年、三新法(郡区町村編制法・府県会規則・地方税規則の総称)制定。
三新法体制下で、木更津県安房(あわ)・平(へい)・朝夷(あさい)・長狭(ながさ)郡長に任じられる。
1881明治14年2月~明治23年、望陀(もうた)・周准(すす)・天羽(あまは)郡長。
コレラ対策や道路の改修工事などに力をつくした。
1882明治15年12月、戸長会で、かりにも国会開設の詔勅を誤解して戸長が軽々しく政談演説にのぞむようなことがあってはならないと厳達。
1889明治23年、第一回総選挙。千葉県第七区、衆議院議員に当選。千葉県最初の代議士の一人となったが、その後は出馬しなかった。
以後、20年間海岸に面した久妻間(くづま)沖の山での荒地の開墾事業をライフワークとし、17ヘクタールの良田を造成した。
1912明治45年7月30日、明治天皇崩御。
重城保、哀悼の漢詩を浄書した直後に倒れて死去。79歳。
――― ご大葬の夕、沐浴して遥かに奉送せんとて入浴し遂に槽中に瞑す。嗚呼、この日何の日ぞ・・・・・・ 忠純なる将軍の殉死を哭し、今又知己の翁に永訣す。慟哭痛嘆涕涙滂沱たり。
のち翁の机上を検せしに、扇面に先帝奉答の挽詩あり。其の孫の為に書せしなり、是を絶筆と為す悲しいかな(『房総詩誌』岡巌1924千葉活版所)。
死の三日前まで記した日記は、曾孫・重城良造の手で復刻され、房総に根ざして生き抜いた[偉大な百姓](良造)の記録として、千葉県の貴重な資料となっている。
参考:『明治新立志編』篠田正作1891鍾美堂 / 『日本帝国国会議員正伝』木戸照陽1890田中宋栄堂 / 『千葉県の歴史』2000山川出版社 / 『富津市のあゆみ』1983富津市史編纂委員会
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