父と兄は漢詩人(野口松陽・寧斎)、京都大学初代図書館長・島文次郎
歴史ブログを書く愉しみ、興味深い人物を見つけては紹介すること。資料探し、国会図書館デジタルコレクション http://kindai.ndl.go.jp/ は便利で助かる。かつて買った古い本が無料で読め(古書店は大変かと)や論文・県民だより・図書館だよりなども自宅のパソコンで読めてありがたい。
たまたま『静脩:京都大学附属図書館報』をみていたら、初代館長・島文次郎の父は野口松陽、兄は寧斎とあった。二人とも名のある漢詩人で『明治の一郎 山東直砥』主人公、山東と交際があり、知己にあったような感じがした。
野口松陽は*河野鉄兜(てっと)のもとで山東一郎と共に漢詩文を修業、助け合った間柄、その子・寧斎とも意気投合し両家で熱海に避暑に行くほど仲がよかった。
折しも「明治の一郎・直砥」編集者から、北海道函館・坂本龍馬記念館に設置されたモニュメントの写真が送られてきた。写真は文末に掲載(ブログ元の方式が変わり、写真をうまく配置できない)。
“姫路城、姫路の漢詩人・*河野鉄兜(兵庫県播磨)”
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“漢詩人・ジャーナリスト、上村才六(売剣)その他 (岩手県)”
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野口 松陽 (のぐち しょうよう)
1842天保13年、肥前諫早(長崎県)、諫早氏の主治医・良陽の子に生まれる。野口寧斎・島文次郎の父。名は常共。
?年、 佐賀鍋島藩支藩諌早領の学校好古館で学ぶ。経学を儒臣・福田渭水宅に住み込み教えを受ける。
1861文久元年ころ、詩を播州林田建部藩の勤皇派の儒者・河野鉄兜の塾で学ぶ。
ここで、山東一郎(のち直砥)と出会い、やがて親交を結び家族ぐるみの交際をする。
1864元治1年、諌早に帰って、母校・好古館の教諭となる。ついで大隈重信の信任を得る。
1868慶應4年~1869明治2年、戊辰戦争。
1868明治維新後、三条実美に仕えて内翰史となる。
1872明治5年、正院権少外史となり、権少内史・権少史となる。
1874明治7年6月、山東直砥(神奈川県参事・副知事)と連れだって箱根温泉へ避暑。
1877明治10年、内閣少書記官に昇進。
上司・同僚に川田剛(歌人川田順の父)、久米邦武(歴史学者)、巌谷修(童話作家巌谷小波の父)などがあった。詩文を善くし、森春濤・巌谷一六・小野湖山などと親交を結んだ。
1877明治10年9月、群馬県を訪れ詩を賦したものが「毛山探勝録」である。
1879明治12年、宿痾を発し、退官して養生に専念。
1881明治14年、39歳にて永眠。長男・寧斎は14歳、次男・島文次郎は9歳であった。
山東直砥は友人の早すぎる死を悼み、漢詩集『毛山探勝録』乾坤2冊を刊行。
題字・題辞・跋を当代の著名人が寄せているが、山東の助力が大きい。
ネット“かんがくかんかく(漢学感覚)”に解釈、題辞や跋をよせた人の説明がある。
――― 明治という新しい時代の訪れは、さまざまなものを欧化の色に染めあげ、洋化の発達、英語の流行などももたらした。しかし一方では・・・・・・ 漢語が、封建的階級性の撤廃にともなって、庶民の間にもとりいれられるようになり、漢語は人々にとって、あらたな魅力となってきた(『明治の文芸雑誌』杉本邦子1999明治書院)
野口 寧斎 (のぐち ねいさい)
1867慶應3年3月25日、長崎県肥前諫早。松陽の長男に生まれる。通称、一太郎。
1871明治4年、父に伴われて上京。麹町番町小学校に入学。学友に芳賀矢一・広津柳浪などがいた。
1881明治14年、父の病没により帰郷。
1886明治20年ごろ、再び上京、哲学館に入りかたわら詩を森春濤・海南父子に学ぶ。
寧斎の詩は、『新新文詩』第13集、毎日新聞「滄海拾珠」欄、東京日日新聞「文苑」でみられるが、実際に詩人としての声価は明治23年『出門小草』以降。
1890明治23年9月、森春濤、星社結成。
――― 寧斎は「詩壇の鬼才」の名をほしいままにしていた。その詩は、清詩を宗としていたが、敢えて一派に拘泥せず、絶句・律詩・長詩と瑰麗な作品を遺した。なかなかの論客で、詩人の同党伐異を排し、海南のためには犬馬の労を厭わなかった(『明治漢詩文集』)。
1894明治27~28年、日清戦争。
『三体詩評釈 上・中・下』(新進堂)刊行。
1897明治30年、『少年詩話』(少年叢書・第2編)博文堂。
――― 新聞や雑誌の漢詩欄の選者を兼ね、ことに年少詩人の育成に尽くした功績は大きい。また、和歌・俳句に嗜みがあり、明治小説(翻訳文学を含む)にも通じていた。「太陽」「早稲田文学」「しがらみ草紙」「都の花」などに寄せられたエッセイや文学評論は、改めて見直す必要がある(同上)。
1899明治32年1月11日、「野口寧斎先生詩話」(『名家文話』)
内田魯庵が寧斎と面談し、森春濤が主宰の「星社」をはじめとして漢詩界についてや漢詩のあり方、作り方などを聴いて纏めたもの。読むと、漢詩は解らないながら少しは理解できる。
1903明治36年1月、詩誌『百花欄』創刊。
当代の漢詩人を集めて誌面を飾り、29集まで続いた。また、雑誌『太陽』や「二六新報」で漢詩による文芸時評を展開。寧斎は明治期の漢詩人の五指に入る著名な漢詩人。寧斎門には副島種臣、伊藤博文、乃木希典などの元勲や将軍があった。
寧斎は宿病に悩んでいた。祖父・野口良陽が、旧藩時代、医者として診療中にハンセン病に罹ったといわれ、不幸にも寧斎にそれが顕著に発病したらしい。
―――寧斎主人、身 多年病床に呻吟す 而も斯道の貢献に怠らず その熱誠その高説 俳壇正岡子規と並称し 文壇の双璧とす(『百字文百人評』湯浅観明1905如山堂)
1905明治38年5月12日、自宅にて急死。父の松陽と同じく40歳にも満たず、38歳で世を去った。
その死の経緯は、野口寧斎事件として世間の話題となった。
妹の夫・野口男三郎に謀殺されたという明治期最大の疑獄事件である(『空前絶後の疑獄』花井卓造1906法律顧問会)。そしてその死は、弟・島文次郎に陰を落とす。
島 文次郎
1871明治4年10月6日、野口松陽(常共)と恵以子の次男に生まれる。
当時、父の松陽は官途に就くべく上京。太政大臣・三条実美に漢詩と能書の才を認められ、太政官八等出仕。
?年、 姓が野口から島に変わったのは、父松陽が学んだ河野鉄兜塾に豊後府内大給藩の勤皇志士(のち岩手県知事)島維精が遊学した際に、島姓となったと思われる。
1896明治29年、東京帝国大学文科大学英吉利文学専修を卒業、同時に大学院進学。
――― 文科大学の同期卒業生には姉崎正治(嘲風)・高山林次郎(樗牛)・喜田貞吉・黒板勝美・大町芳衛(桂月)・笹川種郎(臨風)・幸田成友(露伴の弟)・内田銀蔵・原勝郎・佐々政一(醒雪)・桑原隲蔵(桑原武夫の父君)・岡田正美など多士済々で、島も含めて、世に『29年組』と囃されたくらいで、このメンバーが帝国文学会を組織し、雑誌『帝国文学』を創刊したのであるが、その初代編集室は森川町にあった島の自宅におかれていた(「静脩」)。
?年春、 英語教授法視察のため欧米派遣。
1898明治31年、満27歳。文学博士。このとき、日本にいなかった。
1899明治32年2月、京都帝国大学法科大学教授。付属図書館創設事務、嘱託。
――― 首都から一地方都市に落ちた京都在住の学者達は、京都帝大の創設前夜、一体どんな博学の(或いは浅学の)知識教養を備えた学者が東京からやってくるのか、と冷淡な態度で迎えようとしていた・・・・・・ そこへ島館長の任命。
島館長なら野口松陽の次男であるし、松陽が青年時代に河野鉄兜の塾に遊学し、詩と書をよくした秀才であった上に、長男の寧斎も漢詩人としてよく知られていたことが良い作用をした。
京都には鉄兜に敬愛の情をもつ学者・蔵書家が多かった。中でも富岡鉄斎と謙蔵父子・・・・・・ 京都在住の第一級の文化人達が、若い島図書館長に対して親しみの感情を持ってくれたことが、附属図書館のみならず、京大そのものへの京都文化人の態度・感情を和らげるのに役立ったことは測り知れなかった」 (元台北帝大教授・京都国立博物館長神田喜一郎『敦煌学五十年』)。
1900明治33年2月4日、関西文庫協会発会式。図書館閲覧室を会場として、44人の参加者と共に挙行。
――― 島館長の功績の第一に挙げるべきは、本学図書館創設の1899(明治32)年12月11日から僅か1カ月後の1900年2月4日に、図書館事業の啓蒙と研究を目的として、関西文庫協会を設立、機関誌として日本初の図書館雑誌となった『東壁』を創刊したことである。
――― 島館長は京大附属図書館を一般公衆に公開する方針を一貫してもっており、実際に公衆用閲覧室の建築予算を在任中、毎年要求し続けたことを挙げたい。これは実現しなかったけれども、明治期の帝国大学にあっては、驚くべき先見性、開明性であった。
――― 島は開館以後、主として名古屋以西、時には東京・栃木も含めて、各地の蔵書家や寺社を廻って、貴重な蔵書や古文書の臨写や寄贈の依頼を精力的に行った。
館務の執行に当たっては、全館員会議を開き、業務の改変・臨時職員の採用・物品の購入などに至るまで、最も軽い職位の者にも発言を許し、自ら事務用目録主任、寄贈図書監督などを担当して、先頭に立って働いた(「静脩」)。
1901明治34年6月、図書館長として修身教科書調査委員を命ぜられ、上京。
付属図書館大閲覧室に電灯設備が設置され、午前8時から午後9時までの開館時間となった。それまでは、暗くなると利用できなかった代償として5月から9月までは午前7時から開け、大祭祝日日曜日も開館していた。
1902明治35年、『演劇十講』著、金刺芳流堂(東京)/小谷松恵堂(大阪)。住所:東京市神田区今川小路1丁目5番地。
1903明治36年、『英国戯曲略史』緒論(島文次郎)宝文館刊。
1904明治37~38年、日露戦争。 1905明治38年、兄の野口寧斎死去。
その死因、事件を巡り当時の時代性として、如何に島が無関係と判っていても、いやしくも帝国大学の図書館長ともあろう者の係累が、嫌疑だけとはいえ、刑事事件の加害者と被害者に擬せられた上、実兄がハンセン病罹患者であった事実まで伝えられたことが、島にとってマイナスに働いたようだ。
1908明治41年12月、図書館に関する総長からの諮詢に応じ、図書館長、各委員の提議事項を審議するために、各分科大学長、教授各1名よりなる附属図書館商議会を設置するなど、草創期の図書館を熱心に唱導。
1912大正1年、京都帝国大学教授・第三高等学校教授を兼任。以後、英語・英文学の研究・教育の世界に帰る。
1919大正8年、 ――― 氏の宅は石川丈山の詩仙堂に倣って建築されたもので、座敷、庭作り、市中のながめ等すべてが能く似ていた・・・・・・ (島氏)光悦という人は実に偉い人だったね-、光悦のためなら誰でも力を注ぐだろう・・・・・・ ぜひ光悦会を組織して諸種の事業を計画して・・・・・・ 島博士性高雅、談話交際すこぶる淡泊で風流界においても頗る持てる・・・・・・ 教官として学生間の信望が多大である・・・・・・ いずれも、しかあるべきことだろうが、ただ博士が今以て独身生活を続けておられるのが不可解である(『光悦談叢』森田清之助・芸艸堂)
1920大正9年、 <島文次郎博士>
銀閣寺山の山荘にその一生をかくして世を白眼視していられる先生にささぐ。
先生の住みたまふ山の松樅は冬あたたかに枝葉たらふぬ
ふもとべに家居せまれど山住みの玄関まで苔のみちはよごれなし
あしたゆふべ運動がてら割りたまふ薪かもここに積まれてあるは
(歌集『葦火』加藤順三1943四方木書房より)
1923大正12年3月、還暦までに9年も残したまま、すべての官職を辞任。
1927昭和2年、京都女子高等専門学校、英文学講師に就任。
1928昭和3年、20歳年下の京都女子高等女学校教諭・高井トラヱと遅い結婚。
1943昭和18年まで16年間勤務。
1941昭和16~20年、太平洋戦争。20年8月、敗戦。
1945昭和20年、10月10日、腎臓病により74歳で永眠。40歳を前に死去した父や兄よりは長らえた。
墓は洛東鹿ガ谷法然院。
逝去後、木方庸助(神戸外大、京外大)・中西信太郎(京大)・黒田正利(岡大)・堀正人(関大)・深瀬基寛(京大)・岡本隆男(京女大)など英文学での教え子が、島の思い出を雑誌などに発表。いずれも、島が不幸にめげることなく、毅然として、堂々と生涯を生き抜いた“人生の達人”と評し、特に島夫妻と京都女子学園で同僚として勤務した岡本隆男は、夫妻の優しい生活態度を敬慕し筆を極めて称賛している。
参考:静脩 臨時増刊号 京都大学附属図書館創立100周年記念(1999.11) 京都大学附属図書館 / 『明治過去帳』1971東京美術第二工場 / 『明治文学全集・明治漢詩文集』岡本黄石1983筑摩書房
上から、坂本龍馬・岡本監輔・山東一郎の順。
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