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2020年2月15日 (土)

明治・大正期の自由民権運動家・政治家、河野広中(福島県)

 国会中継、テレビをつけたら映っていて見るときがある。真剣に質問しているのに言い逃れ答弁を聞くと、がっかり。ほんとはちゃんと見た方がいいけどと思いながらも、チャンネルを回してしまう。
 たまたま、河野広中の資料をみていたので、ふと、明治の国会はどうだったのかと思った。与党も野党も今よりもっと活発に議論していたのではないか。とくに、自由民権運動が盛んな時期は白熱していただろう。

                       河野 広中   (こうの ひろなか)

 1849嘉永2年生まれ。号は磐州
    秋田氏五万石の城下として栄えた田村郡三春町に、太物商・魚屋・酒造業などを手広くいとなむ河野広可(ひろよし)の三男として生まれる。広中の祖父にあたる河野広重の代、藩主秋田氏から郷士に列せられていたが、おそらく多額の御用金を調達した功によるものと思われる。

 1868慶応4年、戊辰戦争。
      7月、河野は棚倉の西軍陣地におもむき、断金隊の隊長・美正貫一郎を通じて、西軍参謀として出陣していた板垣退助と対面、三春藩の帰順を報告した。このため三春城下は兵火をまぬかれた。河野は同士とともに断金隊に加わり、二本松藩攻撃に参加した。

 1869明治2年11月、三春を去り、若松県の役人となる。
        若松県とは旧会津藩領に設定された政府の直轄地である(明治4年の廃藩置県まで府県と藩が併存)。ここで、上司と対立、ふたたび三春に戻り、三春藩の捕亡取締(ほぼうとりしまり)警察関係の下級の役職についたが、上司とうまくゆかず、解職される。

 1874明治7年、磐前(いわさき)県第14区(田村郡常葉)区長である河野は、福島県で最初の民会を組織。同年、石川区長。
    民会: 地方民会。府県会・区会・町村会の総称。のち、民権運動の発展に伴い、民選議員による地方議会の開設を要求。明治11年府県会規則の制定で公選による府県会を設置。

 1875明治8年、福島で最初の地方政治結社、石陽社を結成。
 1877明治10年、西南戦争。
    西南戦争後、腕力より言論が力を持ちはじめると、各府県から建白書を携えて上京する者が多くなった。やがてその人々が団結し、ついに大阪で愛国社大会が開かれる。
 1878明治11年、三師社を結成し、東北民権運動の指導者となる
 1880明治13年、第三回愛国社大会では植木枝盛が「国会開設の願い書」を起草。それを河野広中・片岡健吉らが太政官へ提出したが受理できぬといわれ、元老院でも却下。
    そこで、府県有志の連合だけでは目的が達せられないから一致して運動しようとなり「大日本国会期成有志公会」が生まれた。
 河野は、国会期成同盟の幹部として請願運動に活躍、中央で政府にせまり、地方へ遊説して国論を喚起するなど活発に運動をはじめた。

 1881明治14年、福島県会議長。
 1882明治15年、福島事件(自由党員・農民弾圧事件)。
     三島通庸県令は自由党との対決態度を鮮明にしていた。着任するや「某が職にあらん限りは、火付け強盗と、自由党とは頭をもたげさせず」といい、さっそく三方道路の建設を決めた。
 この道路は山形県、新潟県の二方から若松に達し、さらに栃木県に延ばして三方向、東北の米作地帯を東京に直結し軍事的にも重要な道路であった。しかし、道路建設に巨額の人民負担を強制したため、県議会議長・河野広中らの自由党員が反対運動を展開。県議会は議案を否決し三島の出鼻をくじいた。
 これに対し政府は集会条例を改正し自由党の組織を分断し、地方組織を孤立させた。
   11月、道路工事強制動員の中止を求めた総代の逮捕に抗議して、農民ら数千人が警官と衝突。
   12月、政府転覆の盟約作成容疑で県会議長河野広中ら自由党員が多く逮捕処罰された。河野は事件の指導者として国事犯に問われ、禁錮7年の刑で下獄。

 1889明治22年2月11日、大日本帝国憲法・衆議院議員選挙法・貴族院令などを公布。皇室典範制定。憲法発布の大赦により河野広中、6年余で出獄。
 1890明治23年、第一回衆議院議員選挙に自由党から出馬し当選。以後14回当選。
 1892明治25年2月、第二回衆議院議員総選挙。
    河野広中は自由党、第三区で当選。選挙運動中に板垣退助が民党(自由・改進党など)応援に福島にきて歓呼で迎えられたが、演説会も談話会も解散させられた。70余名の巡査が各地から集められ吏党(政府支持政党)の選挙に尽力したのである。
  旧会津藩の山川浩は貴族院に入り、柴四朗(東海散士)無所属は第四区で当選。
 1897明治30年、脱党。           
 1898明治31年、旧進歩党系の憲政本党に入る。
    第5回臨時総選挙。河野広中は自由党をぬけて東北同盟会を組織し当選。
 1903明治36年、第19議会・衆議院議長となる。

 1904明治37年、日露戦争。
 1905明治38年、日比谷焼き討ち事件。ポーツマス条約調印当日に東京日比谷公園で開かれた講和反対国民大会の民衆が起こした暴動事件。
  --- 国民は連戦連勝の報道に酔っていた。新聞ばかりでなく日露戦争の実写映画、「仁川沖で敵艦撃沈の光景」「旅順港の大海戦」「遼陽会戦」などが歌舞伎座や明治座で上映され、人々は戦勝に興奮し日比谷公園で大規模な祝勝会が開かれた。
 国民は「伸びきった兵站戦、補給もできずロシア軍を追撃できなかった薄氷を踏むような勝利」の事実を知らされず、また交渉にあたった日本全権の困難な立場を知る由もなかった。
  当時、国民は増税にあえぎ不満を抱えていた。8万をこえる犠牲者をだし、戦費は日清戦争の10倍、国家予算の4割にもあたり多くを外債に依存したため、増税はすべてのものにわたり、負担が重くのしかかっていた。それなのに戦勝にもかかわらず「賠償金は全く取れず、領土も樺太の南半分を得ただけ」というのでは受け入れられない。
 条約調印の日、東京の日比谷公園に講和条約調印に反対する民衆が集まり講和条約反対の国民大会を開催した。
 河野広中を議長とし三万の民衆が条約の否認、戦争の続行、批准拒絶の上奏を枢密顧問官に要請することなどを採択したのである(『明治の兄弟 柴太一郎・東海散士柴四朗・柴五郎』)。
      河野広中、日露講和反対運動、日比谷焼き討ち事件で凶徒聚集罪に問われ投獄される。
 1906明治39年、証拠不十分で釈放。

 1913大正2年、第三次桂太郎内閣総辞職、次の山本権兵衛内閣もシーメンス事件によって軍部の腐敗を露呈し、あえなく総辞職となった。これは民衆運動が内閣を打倒した最初で、大正政変ともよばれた。かわって翌年、大隈重信内閣が成立。
 1914大正3年、河野広中、農商務大臣として入閣。
    以後、立憲国民党・立憲同志会・憲政会の幹部として活躍。
 1923大正12年、死去。享年74。

    参考:日本人名事典1993三省堂 / 『自由民権運動<デモクラシー>の夢と挫折』2016松沢祐作 / 『図説 福島県の歴史』1989河出書房新社

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