福岡県の幕末・明治、炭鉱
よくまあ日々、ニュースの種が尽きない。そしてそれをテレビや新聞が伝えてくれるが、自分は新聞の方がマイペースで読めていい。じっくり読めるし、コラムがまたいい。次は“道に倒れる人あれば”(2019.12.24毎日新聞「火論」玉木研二)より
――― 戦いに荒廃したアフガニスタンの農地復興に捨て身で打ち込み、人々の敬愛を集めながら凶弾に倒れた中村哲医師(享年73)は・・・・・・ 活動の動機を問われると・・・・・・
「道で倒れた人を見たら『大丈夫か』と駆け寄るでしょう。それが人間共通の心だと思う」
「必要なのは100の診療所よりも1本の用水路」・・・・・・ 損得に無縁、困り果てている人に加勢する。
祖父は玉井金五郎。明治から昭和にかけ、石炭積み出しの港湾、北九州・若松を拠点に、当時は「沖仲仕」と呼ばれた労働者を仕切った親分だった。組合を結成して、機械化で人員整理を図る大手資本にストライキで抵抗・・・・・・ 襲われて瀕死の重傷も負う(後略)
芥川賞作家、火野葦平は金五郎の長男で、その妹の子が中村哲さんになる。
映画化・ドラマ化もされた『花と龍』を読むと、「アフガンの人々に深く敬意を払い、苦楽を共にした」中村さんに金五郎の心意気が伝わっていると分かる。
ところで金五郎らが積み出した石炭産地、日本有数の筑豊炭田は現在はすべて閉山となっている。この福岡県北部は現在、若松・八幡・戸畑・小倉・門司の5市が合併、九州で最初の政令都市・北九州市となった。
関東から遠くよく分からないが、気質が異なる幾つもの市が合併するまで、かなりの紆余曲折があっただろう。そんなことを思っていると、「福岡県への転勤をあまり喜ばない人がいる」と話す人があった。理由を聞いたが笑って答えない。気にかけていれば、いずれ分かるだろう。
それはともかく、福岡県の地図をみると玄界灘・響灘・周防灘に接していて、古くから海外と交流があったのが分かる。鎌倉時代には蒙古襲来もあった。そういう知識が少しはあるものの、福岡県の幕末~明治、石炭・炭鉱について知らないので、年表を参考に沿革をみてみた。
1854安政1年、福岡藩、財政整理。小倉藩、種痘を始める。
1860万延1年、福岡藩、軍政改革。小倉藩領企救(きく)郡楠原村にイギリス人上陸、測量を行う。
1864元治1年、第一次長州征伐。翌年、第二次長州征伐はじまる。
1866慶應2年、長州征討のため各藩兵、小倉に集結。
6月、パークス、ロッシュ、小倉で小笠原長行と会談、戦闘開始。幕軍として長州と戦ったが、形勢不利となって自らの手で小倉城を焼き、香春(かわら)に藩庁を移した。
1867慶應3年、大政奉還。王政復古の大号令。
1868明治1年、鳥羽伏見、戊辰戦争はじまる。福岡・久留米・小倉・柳河藩から出兵。
1869明治2年、諸藩に版籍奉還を許し、知藩事を任命。
1870明治3年、福岡藩ニセ札事件おこる。
――― 戊辰戦争に福岡藩は2300人余の大兵を出動し明治新政府に協力。このため藩の財政はますます圧迫され、130万両の借金を抱えた。当時、財政難におちいった多くの藩では、太政官札の贋札を発行して切り抜けた。
製造高は19万両といわれ、北海道・新潟あたりまで出回り、大量の米を買い集めた。藩の行動に不審を抱いた新政府は調査隊を福岡に潜入させ、証拠を握りただちに関係者を東京に護送。
事件の発起人、山本一心は獄中で病死、知藩事・黒田長知は免官閉門、5名斬首、徒刑50余名に及んだ。処刑は東京の伝馬町で執行された。
このような断罪が福岡藩だけに行われたのは、東京の新しい情勢(版籍奉還後の贋札厳重取締りの方針)をキャッチできなかった不運が招いた事態とみるべきであろう(『郷土史事典 福岡県』)。
戊辰戦争というと、会津や佐幕派に肩入れしてしまいがちだが、このような事件を知ると、戦争は勝者の側にも残酷だ。戊辰の内戦は日本の各地に傷を負わせたのだ。
1871明治4年4月、小倉に西海道鎮台が置かれる。
7月2日、免官の黒田長知に代わり、有栖川宮熾仁親王・藩知事となる。
7月14日、廃藩置県。
筑前の福岡(黒田52万石)、秋月(5万石)、久留米(有馬21万石)、柳川(立花12万石)、三池((立花1万石)、小倉(小笠原/豊津藩15万石)、千束(小笠原1万石)、中津(奥平10万石)などの諸藩を廃して8県をおき、それぞれの旧藩主が藩知事となる。
11月14日、福岡・三潴(みずま)・小倉県に再編される。
1872明治5年、麻生太吉が目尾炭鉱を開発。
筑前竹槍一揆おこり、福岡県庁に乱入。 藩札引き換えをきっかけに柳川で起こった暴動は、翌年にかけ県下各地に波及、30万人の農民が参加、6万4千人が処分されるという明治年間きっての大暴動となった。
1873明治6年、三池鉱山を官営とし、工部省鉱山寮三池支庁を設置。
大牟田市三池炭田: のち、三井に払い下げられ、大資本による開発が進み、明治41年、閘門式の三池港が完成されると、石炭関連工業が興って急激に膨張した。
1876明治9年8月21日、数次の変遷を経て現在の福岡県となる。
初代県令に、財政難からニセ札づくりを行って免官処分になった黒田長知に代わり、福岡藩知事になっていた有栖川宮が引き続き着任。
10月、秋月の乱おこる。 旧秋月藩士の宮崎車之介・今村八郎らが、熊本の神風連と呼応して蜂起。
1877明治10年1月、西南戦争(西南の役)おこる。
3月、福岡の乱おこる。西南の役に応じた建部小四郎ら800余人がおこしたもの。福岡城を襲ったが敗れた。
1878明治11年、第1回県会議員選挙。
1879明治12年、植木枝盛『民権自由論』を福岡で刊行。
1880明治13年、『福岡日日新聞』発刊。
1881明治14年、玄洋社結成。平岡浩太郎が社長となる。
1882明治15年、九州改進党結成大会(於熊本)。
1884明治17年、貝島太助が炭鉱を開発。宮田町は筑豊炭田有数の大炭鉱町に発展。
1886明治19年、安場保和、福岡県令に就任。
1887明治20年、『福陵新報』創刊。
1888明治21年、九州鉄道会社成立。
三井に官営三池鉱山の払い下げ許可。
この年から翌年にかけて、撰定鉱区制を実施。
筑豊炭田: 遠賀川流域一帯は石炭層を包含する少丘陵が分布し、明治中期以来、開発が進んで、直方(のおがた)・飯塚・田川・山田などの炭都を発達させた。大正期から昭和初期にかけて隆盛期を迎えた。
直方(のおがた): 三菱新入・三井本洞などの炭鉱が次々に開山。筑豊炭田の交通の中心。
田川市石炭資料館: ♪炭坑節に唄われた、旧三井炭鉱の二本の煙突がそびえる石炭記念公園内に、昭和58年開館。
1889明治22年、大日本帝国憲法発布。
須恵町(すえまち)に海軍新原鉱が開発されたのを契機に農村から炭鉱町に発展。
10月、玄洋社員の来島恒喜、外相大隈重信を襲撃し、自殺。
来島は政治結社の礎を築いた女性、高場乱の「人参畑塾」の塾生であった。来島の行為は英雄視されたが、乱は来島の行為を「匹夫の勇」といい、そのような教育をした覚えはないと(『明治・大正を生きた女100人』)。
1890明治23年、若松に築港会社が設立され、翌24年、若松駅を起点に直方まで筑豊興業鉄道(筑豊本線)が開通し筑豊炭田を背景とするわが国第一の石炭積出港となった。
1894明治27年7月、日清戦争開戦。
1899明治32~35年、小倉に森鷗外・陸軍第二師団軍医部長赴任。旧居は史跡。
1901明治34年、官営八幡製鉄所第1溶鉱炉火入れ。
1902明治35年~昭和、『花と龍』に描かれた時代。
作者・火野葦平の実父母、石炭沖仲仕玉井組の親方・玉井金五郎と妻マンの反骨たくましい庶民的な生涯の実録(岩波現代文庫)。
若松市民会館内に、火野葦平資料館。
1904明治37年、日露戦争勃発。
――― 明治の太政官布告で始まった筑豊の石炭は大正、昭和と、百年の間に無数の炭鉱主を生み、滅ぼした。生き残っていた地元の「石炭御三家」お相次いで閉山。あらしのなかで、御三家の一つ麻生はセメントに転身、命脈を保つ(『新人国記4』)
――― 明治政府のブラックリストにのっている運動家は、福岡と高知が筆頭であったといい、その代表的人物は、オッペケぺー節の川上音二郎や、『普通民権論』の著者・福本日南などがいる(『郷土資料事典 福岡県』)
参考: 『福岡県の歴史』1997山川出版社 /『新人国記4』1983朝日新聞 / 『郷土資料事典 福岡県』1998人文社 / 『郷土史事典 福岡県』1982昌平社 / 『明治・大正を生きた女100人』歴史読本編集部2014新人物往来社
| 固定リンク
コメント