<水準原点標庫>日本最初の建築家の一人、佐立七次郎(香川県讃岐)
2020年2月、大規模なイベントは中止になり、学校も一斉休校するという。この季節、就活や入試の季節でもあり、どこを向いても大変。横浜港に停泊中のクルーズ船の乗客・乗務員から、新型コロナウィルスの患者がでて以来、感染の心配をしている。
このような状況にあっても、医学はもちろん科学、技術に造詣が深い人物は、慌てず騒がず行動するだろう。日本の最初の建築家といわれる4人中の一人、佐立七次郎も物事をよく見極めて行動しそうだ。死後、遺言により慶應病院で解剖される。医学的なことにも興味があったのだろうか。
佐立 七次郎 (さたち しちじろう)
< >内の建物は、佐立の設計。
1856安政3年、香川県高松市で生まれる。父は讃岐藩士。
1873明治6年、工学寮に入学。
1879明治12年11月、工部大学校造家学科(東京大学工学部建築学科の前身)卒業。
工部省技手となり、営繕局勤務上野博物館建築掛を命じられる。
造家学科の教授はイギリス人建築科ジョサイア・コンドルの教えをうける。辰野金吾、曾禰達蔵、佐立七次郎、片山東熊の4名が学んだ。今日的な意味での「建築家」は、この第一期生4名をもってはじまりとされる。彼らは、コンドルから学んだルネサンスを基本とするヨーロッパの建築の造り方を、自分の腕で試みて世に問うていく。
――― コンドルは日本人建築科を教育したのち、官を辞して日本の西洋建築を数多く手がけた。鹿鳴館・旧岩崎邸・ニコライ堂・旧古河邸・三井倶楽部・三菱一号館が代表作である。
辰野金吾は明治の建築界に君臨、代表作は日本銀行本店・東京駅など・・・・・・ 片山東熊、代表作は赤坂の迎賓館 ・・・・・・
曾禰達蔵国家的な仕事をせず、イギリス的な堅実さと品位を好んだ。代表作に慶應義塾大学図書館がある。
佐立七次郎は、内向的な性格からはなやかな舞台から遠ざかった(『東京下町散歩』)。
1880明治13年、鉱山局勤務となり、秋田県院内鉱山建築掛を命じられる。
院内鉱山: 雄勝郡雄勝町にあった秋田藩最大の貴金属鉱山。山形県境付近の烏帽子山(えぼしやま)北麓。
1882明治15年、会計検査院建築掛を命じられ、設計・監督を担当する。
1883明治16年、海軍省に転任し、横須賀鎮守府造船所在勤建築課員営繕掛、学舎教授掛兼務を命じられる。
1884年明治17年、依願免官となり、藤田組(フジタ)に入る。
1885 明治18年、 <会計検査院 >東京都千代田区 、現存せず。
1886 明治19年、 造家学会発起人。
<日本郵船江戸橋店>現存せず。
1887 明治20年、 逓信省に入り、逓信技師に任じられる。工学士。
1888明治21年、郵便及び電信局舎建築法研究のため、欧米へ出張し、翌年帰国。
<名古屋郵便局> 愛知県名古屋市 現存せず。
1889 明治22年、<横浜郵便電信局>
1891明治24年、逓信省を辞し、建築設計事務所を開設。
<東京九段郵便局 >東京都千代田区 現存せず。
<日本水準原点標庫>: 東京都指定有形文化財。
日本の高さの基準となる日本水準原点の目盛板を納める建物である。
同標庫は現在、憲政記念館前庭にある。竣工当時は参謀本部敷地内に位置していた。 現在も公的建造物として機能。
――― 昨年、高校生の時からずっと訪れたかった「日本水準原点」を見学する機会を得た。日本の測量の高さに関する原点である。現地において、日本水準原点を格納した石造りの建築物(標庫)、佐立七次郎が設計(讃岐出身・佐立七次郎:林和彦)。
――― 西洋建築の流れの中で展開していたギリシャ、ローマの建築を直接援用したものは本当に珍しく、日本では「水準原点標庫」が永田町にあります。これは、ローマ神殿をそのまま縮小したような非常に珍しいものです。ここは列柱ではなく2本の柱ですが、このまま柱が並んでいけば神殿になります。そしてそれが三角型の屋根を受け、柱の頭はドリス式のシンプルなお皿であるということです(旧帝国図書館建築100 周年記念セミナー「明治の近代建築」米山 勇)。
水準原点: 日本の水準原点は東京都永田町1丁目1番地、旧陸地測量部構内に設置された水準原標線(水晶板に刻まれた零目盛線)の中点。水準原点が設けられて以来、日本全土を主要道路に沿って網状におおう、精密な水準測量が実施される。
東京湾の海面から標高24.4m)
陸地測量部: 陸軍参謀本部陸地測量部。わが国の精密な5万分の1の地図がここで作られた。
1892明治25年、<大阪中央郵便局 >大阪市北区 現存せず。
<徳川侯爵邸>
1894 明治27年、日清戦争。陸軍施設建築に協力。
1896明治29年、< 東京株式取引所事務所立会所 > 現存せず。
1897 明治30年、日本郵船株式会社・建築顧問。
1904明治37年、日露戦争。
日本郵船 小樽支店、着工。
フランスルネッサンス様式の石造石積み2階建て、亜鉛引鉄板葺の建物。
1906明治39年10月、<日本郵船小樽支店> 落成。
北海道小樽市、国の重要文化財。
現在は、小樽市が所有して博物館として使用。
裏門には、先に手がけた日本水準原点標庫のドリス式ローマ神殿形式様の特徴的な面影を見ることができる。
施工は地元の大工棟梁・山口岩吉と石工・山田藤次郎があたり、総工費は当時の価格で約6万円。
外壁は小樽天狗山産凝灰岩、腰・胴・軒蛇腹部分には登別産安山岩を使用。竣工当時の壁面色はクリーム色で、窓は北国の冬を考慮した二重窓、地下にはボイラー室を設け、蒸気暖房など当時としては最新式の設備を備えていた。
小樽は北海道開拓の拠点都市として商業港湾機能が充実する過渡期で、船舶・海運・倉庫業界が競って、船入澗を設置し石造倉庫が多く建てられた。
日本郵船の小樽支店であるとともに、日露戦争後に樺太(サハリン)の北緯50度以南を日本領土とするための日露国境画定会議が開かれた場所でもある。
同測量は、樺太で日本とロシアの天文学者や測量技師が現地で行ったもので、これは陸地測量部最初の海外測量になった。
11月、ポーツマス条約に基づく日露の樺太国境画定会議が会議室で行われ、会議終了後貴賓室で祝盃が交わされた由緒ある建物である。
1907 明治40年、<緑座>
1912大正元年12月 、退社し自宅で静養。
1922大正11年11月 死去。享年67。
墓は、谷中霊園。遺言により遺体は慶應病院にて解剖される。
子の佐立忠雄も建築家。作家・詩人の金子光晴の義祖父にあたる。
参考:『奈良国立博物館だより 91号』 / 『東京都の歴史散歩 下町』2005山川出版社 / ウイキペディア(Wikipedia) / 「タイトル旧日本郵船小樽支店の建築部材の劣化と保存対策」高見雅三ほか2012東京文化財研究所 / 『世界大百科事典』1972平凡社 / 国会図書館デジタルコレクション / 『東京下町散歩 25コース』仙田直人・田中暁龍・中里裕司 2003山川出版社
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