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2020年2月 8日 (土)

『三太郎の日記』哲学者・美学者、阿部次郎(山形県/宮城県)

 ずいぶん昔、二十歳の記念に『広辞苑』(第1版11刷)を買って長らく使用しているが、先日、パックリ割れた。仕方なくほかの大型辞書を使ったが、どうもなじまない。
 今は何でもスマホで簡単に検索できる。紙の辞書がいいなら新しく買えばいいのかもしれない。しかし、歴史好きには古い言葉や単語がある方がいいから、結局、元の広辞苑を机に戻した。
 昔は今ほど図書館が身近でなかったから、本は買って読んだ。
 ところで、若いときは背伸びしがち、難しい本を手にした。でも、かっこつけても読み切れない本は積んどくされる運命となる。
 三木清全集は埃をかぶって積ん読ウン十年。自慢じゃないが阿部次郎『三太郎の日記』も同じである。ただの本好きには難しいのに、なんで読もうと思ったのだろう。   

                          阿部 次郎
 
  1883明治16年8月27日、山形県飽海(あくみ)郡上郷村大字山寺で生まれる。
    父・富太郎、母・雪の次男。
    ?年、庄内中学在学中に哲学志望をかため、父の転勤で山形中学校に転校。
       在学中、校長排斥運動のため放校されて上京。
 1901明治34年、京北中学をへて東京第一高等学校に入学。
        この一高時代に鳩山秀夫・岩波茂雄・萩原井原水・穂積重遠らと親しくなる。
 1904明治37年、東京帝国大学哲学科に進む。典型的な秀才タイプで、幅広い教養主義を実践する指向をしめしていたが、人間的な豊かさをそなえていたため人望があった。
 1907明治40年、卒業。卒業論文は「スピノザの本体論」
          在学中はケーベル、大塚保治、波多野精一に傾倒し、知識を網羅して終に価値論に集中するという勉強計画をたてた。そのいっぽう豊竹章之助の義太夫や芝居見物にも興味をもった。
         
 1909明治42年、夏目漱石に師事し、森田草平・小宮豊隆らと交わる。
    理想主義に根ざした人格主義の評論活動を展開する。
 1911明治44年、読売新聞客員。
 1913大正2年、慶應義塾大学講師。
 1914大正3年、『三太郎の日記』刊行。
    ――― 阿部の名をもっとも髙からしめている『三太郎の日記』は、26歳から35歳までの間に記された「個性・芸術・自然」「沈潜のこころ」「遅き歩み」「芸術のための芸術と人生のための芸術」等々の作品をおさめたものである。感受性豊に内省的な姿勢を一貫させて、悩み、動揺し、そして自己を問いつづけて、全人格的な統一を希願しようとしたこの彷徨の書は、これにつづく『人格主義』とともに、阿部をいわゆる大正期教養主義の第一人者とするとともに、以後、哲学的に人生を考えようとする青年知識層に、いわば「通過儀礼」のごとき古典的名著ともくされて愛読されつづけた(佐藤能丸『民間学事典』)
   令和の世はスピード時代、すぐ答えを求める。それにはスマホ・SNS・AIなど便利なものがいろいろある。今でも内省的な若者はいると思うが、生きにくいかも。

 1916大正5年、哲学書『倫理学の根本問題』、6年、『美学』、8年『ニイチェのツアラツストラ、解釈並びに批評』刊行。
     この間、日本女子大学でも教鞭をとる。
 1917大正6年~大正8年、『思潮』小宮豊隆らと友人・岩波茂雄の岩波書店から刊行。
    和辻哲郎「古寺巡礼」、西田幾多郎「日本的といふことに就いて」などを掲載して、短期間ながら大正教養主義の一牙城をなし、やがて学術雑誌『思想』の先駆をなした。

 1920大正9年、幸田露伴を中心とする「芭蕉研究会」に参加。
 1921大正10年、東北大学法文学部新設のさい教授として招聘され、喜んで新学部創設に参与。停年まで美学講座を担当した。
    東北大学に在職中は、面会日を木曜日に、戦後は日曜日に定め、学生などと交流を深めるとともに、芭蕉会を起こし、阿部日本文化研究所を創設。地方文化の発展、興隆に尽くした。
 1922大正11年、文部省、在外研究員としてヨーロッパ留学。
    出発にさいし『地獄の征服』『北郊雑記』などをのこす。
    留学を契機として、日本人の文化的基盤への反省と研究を真剣に行うようになる。
 1923大正12年、帰国。東北大学教授となり、美学講座担当。
        --- かれの課題は、第一には専攻する美学理論の集大成であり、第二にはゲーテについての根本的研究であり、第三には日本文化の徹底的な究明であった(生松『現代日本文学大事典』)。

 1925大正14年、東京の家を売却して、仙台市土桶に住む。
 1926大正15年、山田孝雄・小宮豊隆らとともに「芭蕉会」おこす。

 1931昭和6年、『徳川時代の芸術と社会』、8年、『遊欧雑記独逸の巻』
 1937昭和12年、『ギルヘルム・マイスター遍歴時代』、14年、『ファースト第二部』
 1938昭和13年、「郷土史料として觀たる東遊雜記」(郷土研究.第3集、山形県女子師範学校)国会図書館https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1025749/4で読める。
 1941昭和16年、東北大学法文学部長になる。この年、軽い脳溢血の発作おこる。
 1942昭和17年3月退任。
 1945昭和20年、定年退職。翌年、名誉教授。『万葉人の生活』刊行。
 1947昭和22年、日本学士院会員。「阿部次郎選集」全6巻。
 1954昭和29年、阿部日本文化研究所を設立。
 1959昭和34年10月20日、死去。 墓は仙台市北山霊園にある。

  初期、コスモポリタン的教養主義は次第に、日本文化の検討・究明へ向けられ、松尾芭蕉をはじめ日本の文学・文化研究にも努めた。生涯を通して個人的理想主義を貫いた。
      --- 告白的思索の記録であり、また<永遠の青春の書>と評される『三太郎の日記』さらに『人格主義』によって、阿部次郎はいわゆる大正期の文化主義・教養主義・人道主義のチャンピオンと目される(同上)。
 書画の収集品も多く、没後、仙台市博物館に寄贈「阿部コレクション」として保存されている。
 そのほか、「ファーストの翻訳」 『光あるうちに光の中に歩め』 『阿部次郎論集』 『美学』 『世界文化と日本文化』 『阿部次郎全集』全17巻。

   参考: 『宮城懸史29』1986宮城県  / 『現代日本文学大事典』1965明治書院 / 『民間学事典』1997三省堂

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