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2020年2月22日 (土)

日露戦争さなかの出会い、森鷗外と田山花袋(島根県・群馬県)

 田山花袋は『蒲団』という作品で有名だが、まだ読んだことがない。しかし、紀行文は何編か読んで好いなと思った。
 読むきっかけは、『明治の一郎 山東直砥』執筆中、主人公が漢詩仲間と熱海へ出かける場面に際し、花袋の「杉田梅林」を参考にしてからである。
 今や夏目漱石や森鷗外の作品に現代語訳が必要な時代である。明治期の作品は漢文体に近く難しいが、花袋の紀行文は100年過ぎた今も平易で読みやすい。現代の中高生でも読める分かりやすい文章なのが、すごいと思う。

  「杉田梅林」は、やさしく分かりやすい文章で梅の名所を描写している。散文なのに詩をよむように情景が目に浮かぶ。熱海の近くで生まれ育った人が「杉田梅林」を読んで、花袋が描いた風情が今も残っていると感心していた。
 田山花袋は全国各地を訪れ、紀行文を残している。故郷や観光地などの昔を知るよい手がかりになっていそうだ。国会図書館近代コレクションで多くの作品が読める。

 1862文久2年1月19日、森鷗外(森林太郎)生まれる。
   島根県石見国鹿足郡津和野町田村横堀、津和野藩御典医・森静泰とミネ子の長男。

 1871明治4年12月13日、田山花袋(田山録弥)生まれる。
   上州館林秋元藩士・田山鋿十郎とてつの次男として、群馬県邑楽郡館林町で生まれる。なお、初め館林藩は栃木県に属していた。
 1877明治10年、西南戦争
   花袋の父は警視庁別働隊に志願して出征したが、熊本県益城郡飯田山麓で戦死。

 1881明治14年、鷗外、東京大学医学部卒業。東京陸軍病院課僚を命ぜられる。
     花袋9歳。祖父にともなわれて上京。京橋区南伝馬町の書肆・有隣堂に奉公。
 1884明治17年、鷗外、ドイツ留学。ライプチッヒ大学ホフマン教授に師事。
 1886明治19年、花袋、上京後、尾崎紅葉・江見水蔭(小説家)を訪ねて小説の筆をとりはじめ、新体詩もつくる。

      --- (花袋)13歳の年に館林藩の儒者に漢学を学び、16歳の頃には、『穎才新誌』に漢文や漢詩をどしどし投稿した・・・・・ ところが、その漢詩をきれいに捨てて、19歳の年に、松浦辰男の門に入って、歌をはじめた。ところが、この歌も1年ほどで思い切りよく止めて、新しい文学の方へ進んだ、あそこが花袋のえらいところで、後に自然主義の主唱者になったのも、あの花袋の決断である。
 ・・・・・ 花袋は桂園派の歌人に学びながら、桂園派の歌の欠点はことごとく打ち捨てて「描写の尊いということ」「真でなければ駄目」ということ・・・・・この二つのことを学んだ(『一途の道:決定版』宇野浩二1941報国社)

 1887明治20年9月、鷗外、カールスルーでの万国赤十字社総会に*石黒忠悳・松平乗承らに従って出席。翌21年、帰国。陸軍軍医学舎(軍医学校)教官となる。
    https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/.preview/entry/770549853a458a0ce347b35081f96ec9
    “明治の軍医制度確立、石黒忠悳(福島/新潟)”

 1894明治27年、日清戦争勃発。鷗外、初め中路平坦軍医部長として韓国へ。
    10月、鷗外第二軍兵站軍医部長になり中国に転戦。
 1896明治29年1月、鷗外、「めざまし草」創刊。12月、『月草』刊行。
 1898明治31年、花袋、石橋愚仙編『山高水長』に「つかね緒」が収録され、浪漫的詩人、紅葉一門の小説家として知られる。
 1899明治32年6月、鷗外、陸軍軍医監に任ぜられ、小倉第十二師団軍医部長のち柴五郎・第12師団長(大正3)。
 1902明治35年、鷗外、東京第一師団軍医部長として帰京。
        6月、鷗外上田敏らと『芸文』創刊。9月、『即興詩人』刊行。
 1902明治35年、花袋、『重右衛門の最後』をだし、文壇の注目を集めた。

 1904明治37年、日露戦争始まる花袋、志願して従軍記者となり、第二軍軍医部長の森鷗外と出会う。
   ちなみに、『明治の兄弟 柴太一郎・東海散士柴四朗・柴五郎』柴五郎は、第二軍・野戦砲兵15連隊長として出征、得利寺・蓋平・海城、遼陽へと転戦している。

        <陣中の鷗外漁史>(田山花袋)より引用。
   --- 鷗外氏に始めて逢ったのは、日露戦役当時、第二軍がこれから宇品を出発して、どこかの地点へ向かうという時であった。場所は広島の大手町の大きな旅館の一間。
 ・・・・・ 騎兵が行く、歩兵が行く、砲兵が行く、砲車が行く・・・・・ 人の心は苛立って、騒いで、あるものに向かって絶えずあせっているというような、又は別れの悲哀と、愛国の精神と、功名の念と、危惧の情との一つになって渦をまいたような・・・・・。
 私は志願した写真班の一員として、一面従軍記を書くべく、第二軍と一緒に、広島市へと来ていた。
 ・・・・・ 志願はしてあるものの、黙った置いて行かれては大変だというので、何の彼のと手蔓を求めては、私達はよく第二軍司令部に行った。そこへ行っては由比光衛中佐・軍の参謀次長によく叱られた。・・・・・「伴れて行くか何だか、俺は知らんよ。一体誰が受け合ったんだ」などと脅かされた。
 丁度その時、鷗外氏は軍の軍医部長で・・・・・ 私は是非お目にかかりたいと思った。しかし、中佐位の人でも、すぐ怒鳴りつけられるのだから、将官などには、とても逢えまいと思って躊躇していた。 ・・・・・ ある日、思い切って名刺を持っていった・・・・・ 私は文芸の有り難さを感ぜずにはいられなかった。私は作家として何もしていやしない。それにも拘わらず、佐官でも滅多には逢ってくれないこの戦時に、軍医部長が別に不思議もないようにってくれようとは!

 ・・・・・ 鷗外氏は、「まァ、ここに来たまへ。花袋君だね、君は?」 この「花袋君だね、君は?」が非常に嬉しかった。
 鷗外氏の個人主義は、私は昔から好きだが、こういうふうにさっぱりした物に拘泥しない態度は、何とも言われない印象を若い私に与えた・・・・・ そこに三四十分いて、又、戦地でお目にかかりましょうといってわかれた。
      --- 汚い支那民家、炕の中のアンペラ、何も見るものも食うもない遼東平野、それも後には段々暖かくなって、桃や杏が土壁の間に咲いているような逸興も出てきたが、上陸した当座は、唯、寒い風と、塵埃と、茶褐色の土とがあるばかりであった。
 ・・・・・・ 鷗外氏の『歌日記』を見ると、氏はそういう荒涼とした中にいて、都に置いて来た若い夫人と生まれてまだ幾らも経たない愛娘との事を思っておられたのであった。
 ・・・・・・ 金州の戦、得利寺の戦、一戦争あると、軍医部は中々忙しかった。鷗外氏もじっとしては居られないようだった。得利寺戦の後、暫くいた尖山子という村は、遼東ではちょっと風景の好い村で、樹の影なども多かった。そこに居たときにも、敵襲があって大騒ぎをした。

 ・・・・・・ 蓋平、大石橋、海城、常に、私は氏と一緒だった。殊に忘れられないのは、海城の箭楼子で、私が熱を病んで、軍医部のご厄介になったが、その時、氏は、「軍医部に来ていたら、何うだ」こう言ってくれたので、私はそこに言って寝ていた。熱が烈しいので、チブスになる虞があった。私が寝ていると、氏は、「何うも取れないか、熱か・・・・・・」などと言って私を慰めて呉れた。
 ・・・・・・ 遼陽で別れをつげて帰る時、暇乞いに行くと、「好いな、美しいな。こっちは、これから段々遠くなるばかりだ」こう言って鷗外氏はさびしく笑われた(『東京の三十年』)

 1907明治40年、花袋、短編小説『蒲団』発表。
    作者が自己を赤裸々に告白した作品として好評を博し、自然主義文学の代表作といわれた。それのみならず、<私小説>のさきがけとして、日本近代文学史上の記念碑的作品となった。
        3月、鷗外、与謝野寛(鉄幹)・伊藤左千夫・佐佐木信綱らと観潮楼歌会を催す。
        6月、鷗外、西園寺公望主催の雨声会に出席。
 1930明治43年、鷗外、慶應義塾大学文学科顧問となり、永井荷風を享受として推挙。

 1913大正2年、鷗外、『阿部一族』を中央公論に発表。
 1918大正7年、花袋、「芍薬」を『早稲田文学』に、「小春日」を『新潮』に発表。
 1919大正8年、鷗外、帝国美術院初代院長となる。
 1920大正9年、花袋『新しい芽』刊行。4月、妻を伴って伊勢、近畿地方を旅行。
 1922大正11年7月9日、森鷗外死去。60歳。谷中斎場で葬儀。
        のち、三鷹の禅林寺に葬られ、墓標は遺言にしたがって、「森林太郎墓」とのみ掘られている。

 1928昭和3年12月、花袋、脳溢血で倒れて床に臥す。
 1930昭和5年5月13日、花袋、代々木の自宅で死去。58歳。多磨墓地に葬られる。
        『田山花袋全集』のほか『東京の三十年』『インキ壺』など、小説以外の解説類に見るべき物が多いのは、『文章世界』主筆として後進の指導に当たったからである。

   参考: 『田山花袋』坪内祐三2001筑摩書房  / 新潮日本文学アルバム『森鷗外』1994 / 『日本人名事典』1993三省堂 / 『現代日本文学大事典』1965明治書院 / 国会図書館デジタルコレクション

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コメント

広島市で自然観察と歴史のガイドをしている者です。現在この出征について勉強中でここに参りました。

この投稿は2月22日のものですが,二人が明治37年宇品を出港したのは2月の21日ですので,大手町の旅館で会ったのは前日の事でしょうか?私は今このコメントを大手町で書いているのでなんだか感慨深いものがあります。

翌日,宇品には賀古鶴所も見送りに来て歌を残しています。

とても参考になるお話で感動しました。ありがとうございます。

投稿: 坂谷晃 | 2022年2月17日 (木) 13時46分

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