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2020年3月28日 (土)

底辺を視座に社会事業家・監獄学者、小河滋次郎(長野県)

 新型コロナウィルスのせいで東京オリンピックの延期や中止が取りざたされる春、2020.03.21宮城まり子さんが93歳で亡くなられた。日本で初めての肢体不自由児の養護施設「ねむの木学園」を設立、運営してきた女優さんである。
 子どもの頃、小柄なのに明るく元気に歌うまり子さんの映画を見たことがある。その人気者の女優さんが私財を投じて「ねむの木学園」を開設!のニュースに驚かされた。
 それから50年以上、半世紀にわたり独自の障害児教育に取り組み、絵画展やコンサートを開いて障害者への理解を訴え続けてきたのだ。すごい人だ。

    --- 最後のインタビューとなった19年6月、「今の社会に言いたいことは」
「いろんな国の人のこと、優しく思ったら、もう少し、穏やかになるんじゃない。隅っこにいる人を忘れないでね。声の届かないところで一生懸命やっている人の意見を聞いてほしい」(毎日新聞2020.03.24藤原章生)   

 このように力の弱い人に寄り添う人がいて、世間一般なんとか壊れずにいられるのかもしれない。そして、昔も声をあげられない者の助けになろうとする人はいた。明治・大正期の社会事業家、監獄学者の小河滋次郎もその一人である。

     小河 滋次郎    (おがわ しげじろう)
 1862文久2年12月3日、信濃国上田(長野県上田市)、金子宗幻の次男に生まれる。のち、小河家の嗣子。
 1884明治17年、東京専門学校(早稲田大学)卒業。
 1885明治18年、内務省嘱託となって、監獄行政を担当。
 1886明治19年、帝国大学法科大学専科(東大)を卒業。
   *穂積陳重(ほづみのぶしげ)教授の指導で、監獄行政に専門的な関心をもつようになり、一貫して監獄問題に取り組む。

  ――― 私(穂積)が考えた法の極致は、刑をもって人を救うことである。一度誤った人間を如何に処置するかは、刑法学者の慎重に考えねばならぬことである。かように考えて小河君に勧めたのであるが、同君も一大決心を以て生涯を斯学の専攻に捧げることを誓うた・・・・・・ 警察学や監獄学を研究する人は当時は、珍中の珍であって・・・・・・ 専門的の学問であるから、雇うてくれるものがない・・・・・・ そこで当時の警保局長であった*清浦奎吾君にたのんで、監獄に採用してもらった(穂積陳重)。

  *穂積陳重: 法学者。父・穂積重遠、弟・八束も法学者。妻は渋沢栄一の長女。
  *清浦奎吾: 山県有朋系官僚。山県・桂内閣の閣僚を歴任。

   *内務省警保局に入る。
  ――― 小河君は政治学者にして、朋友同輩は政治家の虚栄に耽り法律家の収益を貪り国家同胞の義を思わざるに、小河君は斯学のために殉へて内務省警保局に出仕し、監獄制度を調査し、碩学の書を繙き獄制の改良を鼓吹し、当路者及び国民を警醒する所あり。
 神奈川典獄に任ぜられたれば、文明的監獄則実施の好機を得、大に手腕を振るいたりしも尚まだ学術実際の至らざるなきを観念し、欧州に於いて開設せられたる万国会議に臨席して万国の事情を探知し監獄学を研究せんことを内務省に請えり・・・・・・ 万国会議に列し各国の使臣と共に監獄の得失を論定し、大に日本の名誉を発揚して帰朝したり。
 日本政府は由来、監獄の制度に重きを置かざりしが故に監獄の中央当局者を高等官に待遇する道なく、やむを得ず君を属官の一員に採用して、獄制の統括に任ずるの奇観を呈したり(『立身致富信用公録』)

   *警保局: 司法省警保寮(明治初期の警察行政機関)→明治7年、内務省へ移管 →明治9年、警保局と改称。

 1891明治24年、司法省監獄課長。
 1892明治25年、『看守必携獄務提要』(国会図書館デジタルコレクション参照)
 1894明治27年、浩瀚な『監獄学』を出版(同)。
 1895明治28年~1898明治31年、欧米の監獄状態を視察。
    ドイツ留学。西洋の犯罪理論や近代的な監獄制度を学ぶ機会となった。
 1897明治30年3月13日「官報」、依願免・非職・神奈川県典獄従七位・小河滋次郎。
 1898明治31年、長崎県・香川県・熊本県、三池集治監へ出張(内務省)
    監獄事務官、監獄局長事務取扱。

  ――― 警視庁の監獄署典獄に欠員を生じたれば、直ちに君をその職に任じ、模範監獄として新制を実行せしめたるに成績良好、官民共に監獄改良の必要を承認するに及び、始めて内務省に監獄局を設置し、君を監獄事務官に任じ、監獄費国庫支弁の議を決し、漸く今日の実効をみるに至りたり(「立身致富信用公録」)。

 1901明治34年、大阪府・広島県・香川県・愛媛県・徳島県・高知県へ出張。
 1902明治35年5月7日、青森県へ出張の序でをもって函館へ出張を命ぜられる。
 1903明治36年、「監獄改良家 小河滋次郎君」(「立身致富信用公録」)
  ――― 君、今日は監獄局獄務課長高等官四等一級俸を賜い、専ら監獄改良の事に熱中せらるる嗚呼、当代希有の義人というべし。

 1904明治37年1月、浦和監獄川越分監へ出張。
 1905明治38年、9月のハンガリー・ブダペストの第七回万国監獄会議委員。
 1906明治39年、文官普通懲戒委員。5月、大阪監獄・京都監獄へ出張。
   8月、法学博士。学位論文「未成年者ニ対スル刑事制度ノ改良ニ就テ」。
   10月、樺戸・函館及び新潟の監獄へ出張。   
 1907明治40年、「監獄史」小河滋次郎・*留岡幸助(『開国五十年史』大隈重信・開国五十年史発行所)
   3月、宇都宮監獄栃木文監へ出張。
    大隈重信銅像落成で「早稲田大学校友・学生総代」として式辞を述べる。

   *留岡幸助: 牧師、社会事業家。北海道空知集治監教誨師。渡米して監獄の改良、感化教育事業を調査。
        東京巣鴨に過程学校を創設。 
 1908明治41年3月、監獄法制定に貢献。
   東京帝国大学で監獄学の講師を勤める。日本における監獄学の先駆者となった。
   4月、監獄事務官法学博士・小河滋次郎、典獄・中村襄、清国政府獄務顧問に招かれ、法典起草に参与。
   
 1910明治43年、官を辞し、大阪府知事・*大久保利武の招聘により大阪府の嘱託となって大阪に移住。
   社会福祉政策に熱心な大久保知事は、小河をブレインの一人に選んだ。
 小河は、*賀川豊彦や*鈴木文治などを講師に招いて、政府の実務担当者や有力者を集めて、啓蒙活動に努めた。そして大久保知事の後任・林市蔵のしたでも引き続き、社会福祉行政に尽力した。

  *賀川豊彦: キリスト教社会運動家。アメリカ留学。帰国後、神戸貧民街の伝道を通じて社会問題に関心を持つ。主著『死線を越えて』。
  *鈴木文治: 大正・昭和期の労働運動家。共済・修養機関的性格の強い友愛会を結成。

  救済事業調査会委員に任ぜられる。
  また、社会問題・監獄問題の研究に専念。
  囚人の人権問題や犯罪抑止策としての貧困の解消、そして死刑廃止を訴え、留岡幸助の民間社会事業に関心を示した。

 1913大正2年、大阪に社会事業協会を起こす。
 1918大正7年8月、国立感化院令公布。国立感化院創立に加わる。
   方面委員制度: 小河の主張に従って、大阪府に今日の民政委員制度の前身「方面委員」制度が全国にさきがけて創設。方面委員は全くのボランティアで、地域の有力者や学歴・地位よりも、「真に博愛と奉仕の心を持った人が選ばれるべきである」と主張して委員の人選にも心を配った。
 米騒動の騒乱をきっかけに低所得者層の救貧・福祉政策として発足した方面委員であるが、小河や林市蔵がまいた種は、十数年あとの昭和に入ってようやく開花する。

 1923大正12年、京都府にて「公同委員制度に就て」講演(京都府内務部社会課)。
   公同委員制度: 大阪における方面委員制度と異名。同質。
 1924大正13年、財団法人日本生命済生会理事となる。
 1925大正14年4月2日、大阪天王寺区で死去。62歳。
   小河滋次郎は、常に底辺の民衆に視座を置くヒューマニズムに充ちた人物であった。

   参考: 『明治時代史大事典』2012吉川弘文館 / 『日本人名事典』1993三省堂  / 『立身致富信用公録. 第15編』1903国鏡社 / 『穂積陳重遺文集. 第4冊』1934岩波書店 / 国立国会図書館近代コレクション

2020.03.27
  東京オリンピック、コロナウィルスのせいで延期になった。お互い気をつけましょう。

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