オランダ通詞・英学の先駆者、堀達之助(長崎県)
新型コロナウィルスの影響で、広がった世界が閉じこもらざるを得ない状況に陥っている。そんな中、東京山手線の新駅、高輪ゲートウエイ駅が開業。年配者には高輪と言えば泉岳寺、赤穂浪士の墓、または落語の芝浜がおなじみ。
ゲートウエイなんて、一体どこから、歴史も風情もありゃしない。世界の門、出入り口の意らしい。たしかに、品川・高輪周辺の変わり様には目を見張るが、それでカタカナ駅名なの?
世界との接点、現在はどこでも誰にでも開かれているが、無理やり鎖国の門をこじ開けられた江戸末期、どのように受け入れていったのだろう。まず、言葉の問題がある。
鎖国中も朝鮮通信使は人気だったし、オランダとは通商があった。そのため通訳、通詞という役職があった。
開国後は、それまでのオランダ語に変わり英語を学ぶ者がふえた。オランダ通詞の子、堀達之助もその一人で幕末の諸外国交渉にあたり活躍。のちに、わが国最初の英語辞書を発行している。筆者は、『明治の一郎・山東直砥』を書くなかで、函館の堀達之助を知った。堀の子孫・堀孝彦『英学と堀達之助』を参照して生涯を五期に分けた。
堀 達之助
1.長崎第一期(文政6年~弘化2年) ~23歳。
1823文政6年11月22日、肥前長崎のオランダ通詞の家系の5男に生まれる。
名前、明治期に徳政と改め、のち達之。
父・中山作三郎武徳、母・陳。
1828文政11年、シーボルト事件。書物奉行・高橋景保、秘かに地図などをシーボルトに与え、捕らえられる。のち、達之助の養父となる儀左衛門、この事件に連座、オランダ通詞の職を逐われ、2年後、釈放される。
1833天保4年、稽古通詞手代。10歳前後から稽古通詞につくなど早熟であった。
1839天保10年ころ、達之助はオランダ通詞・堀儀左衛門の養子となり、堀家を継ぐ。
2.江戸期(浦賀・下田) (弘化2年~慶応元年) ~43歳。
1845弘化2年、浦賀詰め。
1846弘化3年、*ビッドル使節との応接にあたる。英文をオランダ語によらず直接翻訳。
*ビッドル: アメリカ海軍提督。東インド艦隊司令長官としてアメリカ・中国間の条約締結後、浦賀に来航し、幕府側に通商の意思を確認するも拒まれて去る。
1847弘化4年、長崎奉行小通詞並。
1848嘉永1年、アメリカ捕鯨船マクドナルドから英語を学ぶ。同4年、小通詞助。
1854安政1年、ペリー再来港。小通詞に徴用され、応接掛・林大学頭を助けて活躍。
1855安政2年5月21日、*リュードルフのグレタ号、下田へ入港。
*リュードルフ事件: アメリカ人になりすまして下田に上陸、商売を始めたドイツ人のリュードルフという一商人が、日本との交易を願い出た。一私人では幕府と交渉はできず取り下げさせた。堀はその願い出書面が能筆なので、習字の手本にすべく手元に置いていたのが発覚。9月4日、尋問を受け拘禁される。
10月1日、江戸小伝馬町入牢。その獄中で吉田松陰と出会う。
吉田松陰と交流――― さきに下獄していた堀達之助が牢名主として松陰を獄中で迎え入れ・・・・・・ 攘夷の過激派で満杯だった当時の獄は、いわば<解放区>にも等しかった・・・・・・ 獄外では許されない自由活発な議論に満ち、松陰は多くの書簡を内外に向け、発信していた(堀孝彦)。
1857安政4年、蕃書調所(江戸幕府の洋学研究機関)開校。
--- 安政五カ国条約以降、英仏独露の各国語も幕府が習熟しなければならなくなった段階で、必然的に幕府直轄研究機関・蕃書調所・洋学調所・開成所の中で研究・学習すべき語学分化進行・・・・・ 英学センターとなった洋書調所で日本最初の英和辞書が堀達之助が中心となって編纂される。
1859安政6年10月27日、吉田松陰処刑。
その2日後、安政の大獄が猛威をふるう中、堀達之助出牢。才能をかわれて許され、蕃書調所翻訳方を命ぜられる。蕃書調所対訳辞書編纂主任。
1860万延1年、蕃書調所教授手伝い。筆記方を兼任。
1862文久2年、「官版バタビヤ新聞」編纂、販売にかかわる。
オランダ総督府の機関誌である新聞を、幕府の洋書調所が翻訳出版し「官版バタビヤ新聞」と題して萬屋兵四郎に発売させた。のちに『官版海外新聞』と改題。
堀達之助が中心となって日本最初の英和辞書『英和対訳袖珍辞書』を編纂・出版する。
1866慶応2年、同辞書を改正増補し再版本を出版。
1869明治2年、第3版。それが、「薩摩学生編」となっているため「薩摩辞書」と俗称された『和訳英字書』である。
1863文久3年、開成所教授職。
3.函館期(慶応1年~明治5年) ~50歳。
1865慶應1年、開成所教授職のまま箱館奉行通詞。9月、箱館赴任。
1866慶應2年12月、箱館洋学所発足、洋学教授兼勤。
1868明治1年10月、旧幕府軍、榎本武揚上陸。箱館府機能停止、南部へ避難。
1869明治2年1月、南部を引き上げ箱館に戻る。
開拓使(北海道開拓と経営の行政機関)の開拓使権主典、ついで大主典に任ぜられる。
函館はペリーによって他港に先立ち開港、日本における先駆的な英学発祥の地。
『薩摩辞書』(『英和対訳袖珍辞書』の第三、四版にあたる)初版刊行。
1870明治3年、東京早稲田にある北門社新塾(柳田藤吉出資・山東一郎主宰)、函館会所町に分校を設置。
校長・鈴木陸治が漢学を担当、洋学教授を堀達之助が受け持ち、開拓使の御用隙きを見計らい英学を教えた。
ロシア人宣教師ニコライも堀に英学を学んだよう。
1871明治4年、箱館戦争の兵火を免れ倉庫に残っていた洋書類が、堀の尽力によって整理され「函館文庫」が成立する。それら函館奉行所旧蔵の洋書が多数、函館市立図書館にある。
函館市中央図書館デジタルコレクション http://archives.c.fun.ac.jp/fronts/index/culturalProperties
4.長崎晩年期(明治5年~25年) ~70歳。
1872明治5年3月、一等訳官となる。以後、達之と称する。
開拓使版『英和対訳辞書』編纂、出版。開拓使仮学校の生徒各人に貸与。
10月、依願免職。郷里、長崎の長男方に帰る。
老衰および多病のためと職務を遂行できないからとするが、深い事情は分からない。
1881明治14年、『歴史問答作文』東京書林刊。執筆・出版。
5.大阪最晩年期(明治25年~明治27年) ~72歳。
1892明治25年ころ、次男・孝之の家に移り、そこで生涯を閉じる。
堀孝之: 五代友厚の西弘成館理事で大阪を中心に全国的に活躍。
――― 幕末に幕府から、そしてまた明治国家から期待されていた者は、砲術や語学に関する<技芸の士>であって<人文学Moral Science>ではなかった。福澤のような「洋学の精髄を体得してきた経世的学者による『文明論之概略』ではなかった。しかし、時代を超え社会の移り変わりをも超えて、かの英和辞書こそは不朽の作品であるはず(堀孝彦)
1894明治27年、死去。72歳。
墓は堀家代々墓所、大音寺。函館で死去の後妻・美也の墓は青森県むつ市徳玄寺。
参考: 『英学と堀達之助』堀孝彦2001雄松堂 / 『開国と英和辞書――評伝・堀達之助』堀孝彦2011(限)港の人 / 『日本人名辞典』1993三省堂 / 『近現代史用語辞典』1992新人物往来社 / 『明治時代史大辞典』2012吉川弘文館
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