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2020年3月14日 (土)

理学者・ローマ字論者、田丸卓郎(岩手県)

 2020年3月、卒業シーズンだが日本も世界もとんでもない事態になっている。新型コロナウイルス禍で、学校はもちろん至る所が相次ぐ閉鎖となり不安感が蔓延している。
 それにしても、感染の不安もさることながら終わりが見えないのが辛い。長期戦になっても先が見えたら、暗くならずに辛抱できるのに。まさか、映画のようなパンデミック(世界的な流行)が現実になるとは思いもしなかった。
 世界中が封じ込めに躍起になっているが、「天災は忘れた頃にやってくる」といった寺田寅彦が生きていたら、この「未知の脅威」にたいして何というだろう。その寺田寅彦が師事したのが田丸卓郎、明治・大正・昭和期の物理学者である。
 物理や数学は全く歯がたたない、大の苦手であるが、寅彦の随筆集の「田丸先生の追憶」を読み、ピアノとバイオリンを演奏する物理学者に興味をもった。

    田丸 卓郎   (たまる たくろう)

 1872明治5年9月25日、岩手県盛岡大清水小路で生まれる。
    旧盛岡藩士・田丸十郎とセンの次男。
 1879明治12年、伯父・中原雅郎の一家と暮らし、宮城県師範学校附属小学校、次いで東京師範学校付属小学校へ通う。
 1892明治25年9月、東京帝国大学理科に入学。
    生涯の師となる田中館愛橘に出会い物理学を学ぶ。
 1895明治28年、東京帝国大学理科卒業。

 1896明治29年、熊本五高教授。
   入学した寺田寅彦は、夏目漱石、田丸卓郎の教えを受ける。以下引用は、寺田寅彦の随筆「田丸先生の追憶」から。

  ――― 熊本の町を散歩している先生の姿を見かけたことがある。なんでも袖の短い綿服にもめん袴をはいて、朴歯(ほうば)の下駄、握り太のステッキといったようないで立で、いわば明治初年のいわゆる「書生」のような格好をしておられた・・・・・・ とにかく他の先生がたに比べてよほど書生っぽい質素で無骨な様子をしておられた・・・・・・
 まじめで、正直で、親切で、それで頭が非常によくて講義が明快だから評判の悪いはずはなかった・・・・・・ どういうきっかけであったか、先生がヴァイオリンという楽器を持ちだしてこられた。田舎者の自分は、その時生まれて始めてヴァイオリンという楽器を実見し始めて、その特殊な音色を聞いたのであった。これは物理教室所蔵の教授用標本としての楽器であった。それから自分は、全く子供のように急にこの珍しい楽器がほしくなった
  ――― ずっと後に先生が留学から帰って東京に住まわれるようになってから、ずいぶん頻繁に先生のお宅へ押しかけて行って先生のピアノの伴奏で自己流の演奏、しかもファースト・ポジションばかりの名曲演奏を試みた
  ――― 下手な論文を書いて見ていただくと、実に綿密に英語の訂正はもちろん、内容の枝葉の点に至るまで徹底的に修正されるのであった。

 1899明治32年、京都帝国大学理工科大学助教授。
    3月、文部省留学生としてドイツへ出発。
 1900明治33年、東大助教授。
 1901~1905、ドイツのハイデルベルク大学に留学。
 1902明治35年、『物理学教科書:普通教育』シリーズ名新世紀教科叢書・開成館。

 1905明治38年、帰国。
  ――― 帰朝後いよいよ東京に落ち着かれたころは、西方町へんにしばらくおられて、それから曙町へ生涯の住居を定められた。自分はそのころ小石川原町にいて曙町には近いものだから、時々ヴァイオリンをさげて行っては先生のピアノのお相手をした。

    ドイツから帰朝した田丸は、日本式ローマ字に関する演説を行う。
 この後、田丸は恩師田中館愛橘とともに熱心なローマ字論者となり、その普及に努めた。

 一方で、田丸は非常に優秀であったから、同じ物理学者の長岡半太郎は、田丸の頭がもっぱら物理に向かわず、ローマ字にばかり使われていたことを遺憾に感じていたとも(盛岡市HP)。

 1906明治39年4月、理学博士。 『羅馬字文の書き方』(三省堂)
 1907明治40年、東大教授。
    力学を専攻し、飛行機の計器関係に業績があり、本田光太郎らと中等教育物理用語の審議にもあたった。
 また、先輩の田中館愛橘とともに、日本式ローマ字運動を推進。

 1909明治42年、田中館愛橘と「日本のローマ字社」を設立。
           日本式ローマ字による雑誌「ROMAJISEKAI」や「ローマ少年」を出版。
 1912大正1年、ローマ字で執筆の『振動』(日本のろーま字社)出版。
 1914大正3年、「ローマ字国字論」ローマ字運動の理論的根拠を示すもので、現在のローマ字採用論も本書を出ていないと言われる(1993年)。

 1917大正6年、東京帝国大学航空調査会委員。
    同じく寺田寅彦(東京帝国大学理科大学教授・理学博士)も同委員。
 1920大正9年、『ローマ字文の研究』(日本のローマ字社)。
    ヘボン式ローマ字と日本式ローマ字についてなどの記述がある。この本は、名著として今でも版を重ねている。

 1923大正12年、東大航空研究所長事務取扱。
 1925大正14年、ローマ字の『力学の教科書』(日本のローマ字社)。
 1929昭和4年、『文法字引』(日本のローマ字社)。
 1930昭和5年、臨時ローマ字調査会に病をおして出席し、3時間もの演説で日本式ローマ字の必要性を説いた(「盛岡の先人たち」肖像写真あり)。
    
 1932昭和7年9月22日、死去。
   「官報・官吏薨去」より。東京帝国大学教授・学術研究会議会員・航空評議会評議員・帝国学士院会員・震災予防評議会評議員・臨時ローマ字調査会委員。
   田丸卓郎の著書: 『和英対字彙大全』・『RIKIGAKU』全2巻1935~37 ・『中等教育物理学講義』(東京開成館)ほか。著書の多くは国会図書館デジタルコレクションで読める。

   参考: 『日本人名辞典』1993三省堂 / 『寺田寅彦随筆集』1986岩波文庫 

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