明治の英学者、尺 振八(東京)
新型コロナウィルス流行を止めるため、小中高の学校が閉鎖された。戦時中を除きはじめてだという。各種催し、野球・サッカーなどスポーツ、講座・講演なども延期、中止になった。家にいるしかなく先延ばししていた資料やファイルの整理を始めたが、はかどらない。
つい座り込んで読んでしまう。結局、元の「とりあえず箱」に戻す始末。今度とお化けは出ない。今日できることを先延ばしする者は、暇があってもできない。
ところで、「とりあえず箱」には見学会のレジュメやマップ、新聞雑誌のスクラップなど放り込んである。そこから<両国にぎわいMAP>が出てきて懐かしかった。
江戸東京博物館で展示ガイドボランティアをしたことがあり、両国界隈はおなじみだった。取組みが終わった幕下のお相撲さんが両国駅で総武線に乗るのをよく見かけた。
相撲部屋が遠いと関取は車で帰り、若いお相撲さんは浴衣で風呂敷包みを下げて電車で帰るようだ。大相撲は無観客試合となるらしいが、この先、甲子園の高校野球とかどうなるのだろう。
国技館通りの先に回向院があり、「鼠小僧次郎吉の墓」が人気だ。その並びに赤穂浪士の敵討ちで有名な吉良邸跡(本所松坂町公園)があり、すぐ前が時津風部屋である。
道を隔てて両国小学校、「芥川龍之介文学碑」がある。そのまた隣が両国公園で、勝海舟生誕地(両国公園)である。その向かいに「尺振八の共立学舎」があった。
尺振八は幕末から明治にかけて活躍した英学者。周辺人物も興味深く、有名人も多いのに尺振八を知る人が少ないのは何故だろう。筆者もそうだが、英語が苦手でつい避けてしまうのかな。ともあれ、生涯をたどると、自ずと往時の英学事情が見えてくる。
尺 振八 (せき しんぱち)
1839天保10年8月9日、江戸の神田佐久間町(東京都千代田区)で生まれる。
父は下総高岡藩御殿医・鈴木伯寿。はじめ仁寿、のち振八。
才能に恵まれていたが、幼いころから病弱であった。
1858安政5年、御家人・尺兼次郎の養弟となり尺姓を称る。
1854~59安政年間、昌平黌(しょうへいこう)寄宿寮で学ぶ。
幕府洋学校蕃書調所教授・杉田玄瑞(げんたん)に蘭学を学ぶ。
藤森天山、田辺石庵に儒学を学び、田辺の次男・*田辺太一を知る。
*田辺太一: 外交官。外国方、徳川昭武遣欧使節などに随行。
岩倉遣外使節の書記官長。長女は三宅雪嶺の妻(三宅花圃)。
?年、 病気療養中、横浜開港関係の事務に関わっていた田辺太一は尺を見舞い、今後は一日も早く洋学を修めるよう助言した。
1860万延元年、*中浜万次郎・西吉十郎(成度)に英語を学ぶ。
*中浜万次郎: 別称、ジョン万次郎。幕臣・通訳。天保のころ、漁船で遭難、アメリカ捕鯨船に救われ、渡米修学。帰国後、外交文書の翻訳、捕鯨伝授、遣米使節の通弁。
1861文久元年、横浜にいき、外国商人の下働きとなって会話を勉強。
8月、西吉十郎の推薦で*矢野二郎、*益田孝とともに外国方通訳となる。
?年、 麻布善福寺境内に設けられた、アメリカ公使館詰めとなり通訳をしながら、公使館通訳のポルトマン、公使館員らについて英語学力をつけた。
さらに、外国方通訳、尺振八・*津田仙・矢野二郎・益田孝の4人で、立石斧次郎の英語塾にも通った。
*津田 仙:農学者。『農学雑誌』創刊。最初の女子留学生・津田梅子の父。
*矢野二郎: のち外務省に入りワシントン駐在。商法講習所長、高等商業学校長。
*益田孝: 明治・大正期の実業家。三井財閥の基礎固めに尽力。
1863文久3年12月~元治元年、横浜鎖港談判使節・池田長発に従い、通詞御用出役でフランスに赴く。この時、パリで髷をおろし西洋風の髪型、洋服姿で写真を撮った(国会図書館デジタルライブラリーにある)。のち、この写真が原因で幕府の処分を受ける。
1864元治元年7月、帰国。尺・矢野・益田の3人そろって辞職、英語修業に専念。
1865慶應元年、アメリカ公使館通訳となる。
1867慶應3年1月23日、第2回遣米使節団の英語通訳として横浜出航。
アメリカでは国務長官、大統領との会見を通訳。帰国後、アメリカ公使館通訳に復帰、兵庫などに出向く。
1868明治元年、幕府崩壊後も通訳を続け、いっぽうで横浜で英語塾を開く。
1869明治2~3年6月、山東直砥の「北門社新塾」(明治義塾)で英語を教える。
――― 初めて北門社で英語を教えた日本人は尺振八、福澤諭吉の協力で招くことができた・・・・・・ 尺は間もなく自分の塾「共立学舎」を浅草今戸に開くため北門社新塾を去った。後任は林董、松本良順の弟である(『明治の一郎 山東直砥』)。
――― 良順も山東とは関係があった・・・・・・今戸には良順の私邸があった・・・・・・ 良順が自分の家を提供したのではないだろうか(『英学史研究』[英学者・尺新八とその周辺]森川隆司)
*林 董: 外務次官として陸奧宗光の外交を補佐。駐英公使として日英同盟の締結にあたる。
1870明治3年、英学塾「共立学舎」を東京本所相生町(墨田区)に開く。
1871明治4年、共立学舎の塾生111名。ちなみに、慶應義塾323、鳴門塾141名。北門社31名。
1872明治5年、大蔵省翻訳局局長となり、翻訳局官費生の英語教育にもあたる。
生徒に、高梨哲四郎・*田口卯吉・*島田三郎などがいた。
『英語韵礎』 傍訓著者・尺振八/著述・須藤時一郎を出版。
*田口卯吉: 経済学者、文明史家。『東京経済雑誌』創刊。自由主義経済論の立場から政府の保護政策を批判。民権の鼓吹に努め、実業界にも活躍。衆議院議員。
*島田三郎: 政治家・ジャーナリスト。横浜毎日新聞主筆。立憲改進党、衆議院議員。政界の不正を弾劾。廃娼、足尾鉱毒事件救済運動を支援。史論『開国始末』。
1875明治8年、大蔵省を辞し、共立学舎に復帰。
1880明治13年、病のため共立学舎を閉鎖。
イギリスの哲学者スペンサーの翻訳『斯氏(すし)教育論』を文部省から発行。
――― 海後宗臣によれば、同書は当時の思想界に台頭していた「自由」の思潮に乗じて世に出たものであって、明治初年の自由教育論を代表するひとつのかつもっとも広く読まれた文献であり、また翌14年文部省は同書を絶版とするが、当時の自由教育か強迫教育かの思想界の混乱をよくしめしている・・・・・・(茂住實男『明治時代史大辞典』)。
1885明治18年、『明治英和字典』第1刷、刊行。
当時、初学者に適した英和辞書がなく、ウエブスターなど諸辞典を参考にした。
――― 『明治英和字典』の完成は明治22年で、訳述の途中で尺振八の病状が悪化し、その後は*永峰秀樹が代わって訳述を続け完成させるが、同字典に永峰は名を掲げなかった(前出)。
“アラビアンナイト、海軍兵学校教官、永峰秀樹(山梨県)”
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/.preview/entry/770549853a458a0ce347b35081f96ec9
1886明治19年11月28日、病死。48歳。
参考: 『明治時代史大辞典』2012吉川弘文館 / 『近現代史用語辞典』1992安岡昭男編 / 『日本人名辞典』1993三省堂
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