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2020年4月25日 (土)

農村指導・農村救済に生涯をささげた石川理紀之助(秋田県)

 コロナ禍で外出制限中だが、やむなく食料品を買いに行く。学校給食がないため野菜が値下りしたが、やはり元に戻り値上がりも。
 それにしても、食糧自給率が気になる。昔は自給自足の家もあったが、今はもう自分で育てた作物を食べるのは贅沢。お百姓さんはよいと思うが、楽な仕事なんてないから苦労や困難もありそう。
 機械化で作業が捗るにしても、極端な風雨、災害には敵わない。昔は技術指導、情報も少なくきっと苦労が多かった。そんなことを考えていたら、新聞広告の<ドラマにしたい東日本のヒーローたち>が目についた。
 各県それぞれ、武将・藩主・作曲家など10人のヒーローを挙げるなか、秋田県は農業指導者・石川理紀之助である。
 知らない人物なので辞典をひいて、なるほど納得。そればかりか、石川のような指導者がいたら、新型コロナウイルス禍も早く沈静化しそうに思える。優れた人材は現代もいると思うが、抜き出し、力を発揮させる仕組みが今の日本に欠けていそう。

     石川 理紀之助   (いしかわ りきのすけ)
 1845弘化2年2月25日、羽後国秋田郡小泉村の名家奈良家の分家、奈良周喜治・とくの三男に生まれる。幼名は力之助。
 1855安政2年、菅江真澄の墓に詣でる。祖父・喜一郎は、江戸後期の国学者・紀行家、菅江真澄と交際があった。
 1863文久3年、19歳。本家・奈良喜兵衛家に奉公することとなったが、主人は彼の歌学を好まず歌書を燃してしまう。しかし、仕事の能力は抜群だったから奉公人20余人の監督役を与えられ、主人の次女イシと夫婦の縁組されてしまう。
 彼には別の別家の娘の恋人もいたので、何も持たず2朱だけ持って家を出してしまう。
 1864元治元年、帰郷して生家に復籍。
 1865慶應元年、秋田郡山田村(湯沢市)の石川長十郎長女スワと結婚。
   没落しかけた石川家の財政を立て直す。
 1866慶應2年、小作米取立法を定める。雑木山・貯水池などの紛争を解決。
 
 1868明治元年、農兵に徴され、野隊教導となるが、まもなく免除され家業を営む。
    農兵: 幕末、海防と農民一揆鎮圧の必要を痛感した幕府・諸藩により豪農を中心に組織した農民兵。補助兵的な役割。
   会員13名の「山田村農業耕作会」を組織、7年計画を5年間で成功させる。
 1872明治5年、秋田県庁勧業部牧畜係に出仕。以来、明治15年まで10年間勤務。
   往復13里の路程を徒歩通勤するが給料は6円。
 1876明治9年、清岡行三・飯沼長蔵とともに*勧業義会を組織し、農事を改良。
    *勧業議会: 歴観農話連を結成して、種苗の交換など農業技術の研究を進める。
   12月、上京。品川弥二郎農商務次官に評価され本省勤務を求められたが、「秋田来県中の奈良の老農中村直三の月俸は25円だが、閣下は数百円である」と本省と地方庁の手当の差を挙げて断ったという。此の段階では彼本人の手当は20円になっていたということである。
  1877明治10年、内国勧業博覧会の用務のため上京。

 1878明治11年、秋田県各地域の老農を集め、勧業会議を初開催。
    「種子交換会」を結成。15年には「種苗交換会」に発展し農業イベントとして今日に引き継がれる。
  1880明治13年、県内有志と「歴観農話連」を組織。
 1881明治14年、明治天皇東北巡幸のさい、和歌を詠進、橘家の選に入る。 
 1882明治15年、辞職して山田村の救済に着手する。
 1885明治18年、山田村経済会を組織。
 1886明治19年、42歳。巡回教師に登用され、全国各地の農村指導を行う。
   農事巡回教師: 農学者・農事篤志家などが就任。農商務省の指導で各地を巡回。
   石川の方針は、強引とも思えるほどの勤労と倹約の奨励、徹底した農本思想の実行。
  「寝ていて人を起こすなかれ」を生涯の信条にして、つねに実践の先頭にたった。この態度が多くの農民をひきつけ、不満を封じ、事業を成功させるもとになった。「僥倖の利益は永久の宝に非ず」などの教訓は聞く者の心に強く響いたのであろう。

 1888明治21年、父に反発して家出した長男・民之助の遺骨を千島より持ち帰る。
    6月、長男の徴兵検査のため、4月、息子探しの旅に出る。北海道へ渡ったことがわかったが、息子はすでに、2月、国後島にて腸チフスで世を去っていた。
   山梨県知事・*前田正名に招かれ同地に赴く。帰途、千葉県を視察し講話。
   前田正名: 内務省観農局に出仕、三田育種場長。生涯を在来産業の育成に捧げて<布衣の宰相>と呼ばれた。

 1889明治22年、山田村救済の事業完成。草木谷の山居に入る。『夢のあと』著す。
    草木谷の小家屋: 養父が開墾した9反歩の貧弱な田地に建つ、2間に3間の住居。
 1891明治24年、農商務省の東條技師に従い、県内の土質を調査。
   地価修正反対委員となって上京。この年、第14 回種苗交換会。
 1892明治25年、第1回苹果品評会。出品人総代として出席。苹果=西洋リンゴ
   『苹果品定』(苹果品評会)石川理紀之助編。
   貯蔵期間の試験、販売景況などと栽培に適する地勢、移植、剪枝、施肥、虫や兎の害まで、知識と経験に基づく情報が盛り込まれている。
  石川は、珍奇物扱いだった苹果を舶来当初から秋田県に適応した一大副産物となるべき果実と見込んだ。しかし、高利を求めて気候や土地の生産力、種類の適否を考えなかったり、苗木名をごまかされて購入したり、栽培方法も良くなかったりしたため、良い結果を得た人は多くなかった。

 1894明治27年、日清戦争。旱害に弱かった居村の山田村の復興につとめる。
   東京の第一回農事大会に出席。大日本農会より紅白綬有功章を授与される。
   12月13日、広島大本営に赴き、質素な行在所に天機奉伺をし、整った国際性ある軍令部長官舎応接室で樺山中将と面接。
 その後、大日本農会会頭・北白川宮殿下の命で九州に農事を巡講。各県で70回余の講話をし、1万5千余の人々に語りかけ、翌年5月10日に秋田に帰る。
   中村直三の腐米改良研究に尽力。
 1895明治28年5月、51歳。九州より帰郷。
   町村農会設立のため県内を巡講。南秋田郡農会・県農会の創立に尽力し会長となる。
   山形県で開催の奥羽農事大会に関わる。四国・千葉県を巡って講話。
 1896明治29年、岩手・宮城・青森、津波と大地震のため被害甚大。
   これ以後、明治35年まで、農村経済立て直しのため、部落単位でその土地や人々の調査、「適産調(てきさんしらべ)」に本格的に取り掛かかる。

 1898明治31年、県内の救荒に巡回指導。この巡回中、住まいの草木谷山居を焼失、日誌数十巻・詠草・著書70余巻、蔵書2千余巻を失う。

 1901明治34年、農会法公布。従来の農会が廃止となり郡・県の農会長を辞す。
   『稲種得失弁』: 103種のイネの来歴・適地・性状・施肥などを記したもの。
 1902明治35年4月~11月、58歳。前田正名より宮崎県・鹿児島県の開墾事業の援助を請われ、森川源三郎以下6人の同志と宮崎県山田村に赴き農村経済指導、11月帰村。
   2県8郡49ヶ町村にわたる適産調べ完了。この大事業の報告書は731冊に上る。

 1904明治37年、日露戦争。
 1908明治41年、秋田市で東北歌道大会。御歌所派所長・高崎正風、来県。
    石川は、和歌を学び、久保田の三歌人と称された西善寺の僧侶蓮阿の弟子となり、十代半ばで1万5千首もの添削を受けたという。
 1910明治43年、秋田県米穀検査部長。
 1912明治45年、67歳。秋田県仙北郡首村九升田村に救済事業。秦県知事や小林郡長と共に出張、衰微の村落復興に3年間努力する。

 1903大正2~3年、宮城・青森・岩手・宮城・福島の各県で講演、村落の復興をした。
   秋田県平鹿(ひらか)郡角間川町木内、布晒の救済に着手。県南横手盆地にも目を配り、東京の出版社「白水社」の創業者・福岡易之助を讃える歌を詠み、碑文に刻まれる。

 1915大正4年8月、九升田救済事業は「復興終了式」。
   石川は腰痛で、秋田公会堂での講演は布団にもたれ脇息に寄りかかって行った。
    9月6日、病床から坂本三郎県知事に4ヶ条の献言を行う。
    9月8日、逝去。享年、70。
 「聖農」と称される一方で、自らの書を記したのみならず、多くの古書を書写して出版。歌人として生涯で20余万首の和歌を詠み、才能は高く評価された。石川理紀之助は、個性豊かな好学勇武の人でもあった。

   参考: 『秋田偉人叢書』1938秋田県教育会  / 『秋田県概況』1921修養団講習会秋田県協賛会 / 『石川翁農道要典』川理紀之助編1939三井報恩会・石川会 / 『民間学事典』1997三省堂 / 「名誉館長館話実施報告抄」(国造制と東北・石川理紀之助・後藤宙外)新野直吉2019秋田県立博物館 / 『日本史辞典』1908角川書店 / 国会図書館デジタルコレクション 

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