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2020年4月 4日 (土)

奄美の図書館長・戦後の小説家、島尾敏雄(神奈川県・鹿児島県)

 新型コロナウィルスの感染拡大により、休校や公共施設の閉鎖が続いている。お子さんの居る家庭は特に大変だと思う。こんな事になるとは誰も予想していず、社会全体が準備不足、世界中おろおろするばかりだ。不要不急の用がない限り外出しないようにと注意。
 自分は毎日のように出ていたが、不要不急のことばかりだから家にいる。幸い本好きで家にいるのは苦ではないが、図書館が開いていればいいのにと思う。
 今行われている図書館のネット予約をそのまま活用。本の受け渡しは、窓口一つと返却ポストを用意する。これなら接触が少なくて済み、大人も子どもも本に親しめると思うが、どうだろう。

 一口に図書館といっても地域や学校により違いがある。歴史好きだと郷土資料が豊富な図書館はうれしい。ただ、あまり遠いと行かれないが、かなり遠くの図書館に興味をもった。戦後の小説家、島尾敏雄が初代館長をつとめた鹿児島県立奄美図書館  http://www.library.pref.kagoshima.jp/amami/  である。
 実は、島尾敏雄の小説は難しそうで読んだことがないが、<『図書館人物伝』「道の島」に本を担いで――奄美の図書館長・島尾敏雄>井谷泰彦(明治大学大学院政治経済学研究科)を読み、島尾敏雄の経歴を知った。それは、海軍予備学生・作家・特攻魚雷艇・奄美で将来の妻となる女性と出会い等など、まるでドラマのような生涯で、作品を読みたくなった。

         島尾 敏雄
 1917大正6年4月18日、神奈川県横浜で生まれる。
 1825大正14年、父の仕事上により神戸へ移住。
 1930昭和5年、神戸商業に入学。同好の友人と同人雑誌を出す。
 1936昭和11年、長崎高商に入り雑誌を計画したが、創刊号発禁のため挫折。
 1939昭和14年、学生旅行団に加わりマニラへ行く。
   『こをろ』同人となり「LUZON紀行」発表。
 1940昭和15年、九州大学入学。
   はじめ経済、のち文科に移り東洋史学を専攻。庄野潤三らと同窓。
 1941昭和16~17年、満州・朝鮮へ旅行。
 1943昭和18年、私家版『幼年期』発行。
    9月、九州大学を繰り上げ卒業となり、海軍予備学生を志願し採用される。
 1944昭和19年、27歳。特攻魚雷艇要員となり、横須賀の海軍水雷学校・川棚臨時魚雷艇訓練所で訓練を受ける。。
   10月、第18震洋隊指揮官として奄美群島加計路麻(かけろま)・呑(のみ)の浦に駐屯して出撃を待った。この間に加計路麻島の女教師・大平ミホと相知る。
 1945昭和20年、敗戦。父の元に帰る。
 1946昭和21年3月、ミホと結婚。
 1947昭和22年、神戸山手女専・神戸外専(のち神戸市立外国語大学)の教壇に立つ。
 1948昭和23年5月、戦場帰りの孤独な旅人の気儘な遍歴を描いた「単独旅行者」、「夢の中での日常」で文壇に登場。
 1949昭和24年、「出孤島記」第1回戦後文学賞を得、作家としての地位を定めた。
 1950昭和25年、「宿定め」「ちっぽけなアバンチュール」

 1952昭和27年、神戸市立外国語大学を辞める。
   家族を連れて上京、江戸川区小岩で定時制高校非常勤講師を勤めながらプロの作家としての道を歩む。「新日本文学会」「現代評論」などに参加。吉行淳之介・吉本隆明らと交友。以後、2年半の間に戦争物、幻想的作品、私小説的作品など21編が生まれた。
 1953昭和28年12月、奄美群島が日本本土へ復帰したことを契機に、奄美の琉球文化会館の施設と備品の一切は日本政府に引き継がれ、職員は鹿児島県職員となる。

 1954昭和29年10月、島尾の浮気をきっかけにして妻ミホが精神病に陥ってしまう。
   代表作「死の棘(とげ)」はこのときの体験をもとにしたもの、芸術選奨を受賞。
   自己の特異な感受性に密着した作風は難解で、一部支持者をもつに止まっていたが、奄美大島移住後の作品と共に広い読者をもつようになった。
 私小説的方法によりながら、日本的リアリズムを超える方法を模索し続けるところに独自の作風を染ました。

 1955昭和30年5月、国府台病院へ入院した妻に付き添い入院。
   10月、退院。妻の郷里であり、二人の出会い場所、奄美大島へ移住。
   カトリックの洗礼を受ける。
      当初、大島実業高校の非常勤講師をして糊口をしのぐ。
 1957昭和32年、鹿児島県職員として、*奄美日米文化会館館長に就任(~33年)。
   奄美日米文化会館: 旧奄美琉米文化会館と旧奄美図書館の資料がここに集められたが、4年間は図書購入費がセロ。資料センターとしては考えられない事態であった。
   次は、島尾の歴史家としての造詣の深さを物語る館長就任の思い。
   ――― そういう仕事に無知な私のやれることは一つだけだと思っていました。つまり文化会館のなかに史談会をしっかり根付かせ、もっぱら資料の収集に努めることです(分館長になった島尾の感想)

 1958昭和33年4月1日、鹿児島県立図書館奄美分館長(~昭和50年)。現・鹿児島県立奄美図書館。
   図書館の運営の統括・図書の選択分類、郷土資料の蒐集・整理を掲げ、1210冊の貴重な郷土資料を蒐集した。その成果として『奄美史料』の刊行。
   地域の特性もあり、蔵書の半数が各島や離村のサービスセンターへ回される図書、公民館貸出文庫と称され、船の中や港待合室に文庫の設置をおこなう。

 1975昭和50年、鹿児島純心女子短期大学教授・図書館長。
 1981昭和56年、芸術院会員
 1986昭和61年、死去。69歳。

   ――― 島尾の小説は、決して読みやすいものでもなければ、大衆性があるわけでもない・・・・・・ どちらかといえば、玄人好み、通好みの作家であった。
 だが、その一方で、奄美現地を訪問すると、島尾の存在が奄美の人々によって如何に大きなものであったか驚かされる。特攻隊長として死を覚悟していた加計路間島には、島尾の碑とともに、島尾が指揮した震洋艇が静かで美しい湾内にひっそりと再現されている。
 ・・・・・・ 20年間にわたった奄美での生活は、島尾夫妻にとって一番幸福な時間であったようだ。「おやつを持って私もよく顔をだした」と妻ミホは述懐している。出勤する島尾は毎朝ビニール袋を下げて、図書館の玄関までの間に散っているゴミを十能で挟み、袋に入れながらの出勤姿だったとおいう。飾らない人柄だった・・・・・・ そんな島尾の館長室には、悪戯盛りの小学生から県外のマスコミや村の名士まで、様々な人々がひっきりなしにでいりしていたという(「道の島」本を担いで・井谷泰彦)

   参考: 「『図書館人物伝』(奄美の図書館長・島尾敏雄)2007日本史図書館文化研究会 / 『日本文学大事典』1965明治書院 / 『日本人名辞典』1993三省堂

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   2022(令和4年).1.19
   <島の全力プレーを再び>
   ―――鹿児島本土から300キロ以上離れた離島・奄美大島。黒木哲二校長からセンバツ出場決定を知らされた大島ナインは手を突き上げて喜びを爆発させた。今の選手らは大島が21世紀枠でセンバツに初出場した2014年当時の小学生。甲子園でプレーする大島ナインの姿を見て「島からでも甲子園に行ける」と夢をもらった世代だ(毎日新聞)

   ふと思う。甲子園出場の選手や関係者の中に、島尾図書館長とゆかりのある人物の子孫がいるかもしれない。

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