大正・昭和期の詩人・小説家、佐藤春夫(和歌山県)
「作家・環境保護に尽力、C・W・ニコルさん死去――自然への畏敬を忘れずに、大地に根ざした生き方をする」(2020.04.05毎日新聞)
ニコルさんが日本国籍を取得、長野県信濃町に住み森の再生に取り組んでいること。森の活動を通した環境保護。さまざまな活動をされていることから、身近な自然に親しみ大切にすることを教えられた。
ニコルさんを知ったのは、『勇魚』(いさな)という小説。昔の鯨猟の話で、太地(たいじ)沿岸の勇壮な鯨猟がいきいきと描かれているのが印象に残った。
和歌山県の地図で「太地」をみると、大阪に隣接する和歌山市(紀北)から離れた東牟婁(ひがしむろぐん)郡(紀南)にあり、となりは智勝浦町、その先が新宮、佐藤春夫の生地である。
――― 本州の最南端にある紀伊半島は、その殆どが山地で、耕地は県域のわずか一割。ここにあるのは重畳たる山のたたなわりと際涯を知らぬ黒潮の海ばかりである。
・・・・・・紀州漁法が発達したのは、戦国末期から近世初頭にかけてであった。おりから城下町など諸国都市の拡大と農業生産の発達を誘因した漁獲物の需要が急激に拡大する。
この時期、諸国の漁民に先がけて、すでに高度な各種の漁労技術を掴んでいた紀州の漁夫たちは、東は相模、房総、常陸から東北へ、西は四国、瀬戸内、中国、九州、五島列島にいたるまで魚を求めて旅漁に出かけていった。先進的なこれらの漁夫たちの足跡は、いまも諸国の浦々に色濃く残されている。
紀北と紀南では、あらゆる点で対照的である。雪も多く、一月の平均気温が氷点下にさがる高野山と、冬なお菜の花が咲く南国的な熊野地方と、古くから畿内有数の豊饒な穀倉地帯紀ノ川沃野に住み、京阪神の影響を強くうけ、上方商人的な気風をもっている紀北人と、山と海のあいだに孤立し、海の彼方に新しい活路を求めるしかない紀南人とでは、思考法でさえ異なっている(佐藤春夫)。
佐藤 春夫
1892明治25年4月9日、和歌山県東牟婁郡新宮町(新宮市)、紀南で生まれる。
豊太郎・政代の長男。家は代々の医家。祖父も父も詩文を好んだ。
新宮は江戸時代は城下町で江戸雑俳類が盛んであった。そのうえ、幸徳秋水事件に連座した*大石誠之助がでるほど進取的な気風のなかで、春夫は早くから文学を志す。
*大石誠之助: 医者。社会主義運動を援助し、幸徳秋水・菅野すがを診断する。大逆罪で起訴され、明治44年処刑された。
?年、 中学生時代、『平民新聞』木下尚江を読み、『明星』創刊号、『スバル』に投稿。
1909明治42年、17歳。上京、与謝野鉄幹・生田長江を知る。
1910明治43年、中学卒業。慶應義塾文科に入学、堀口大学と生涯の友となる。
新詩社、同人となり、『スバル』『三田文学』などに詩歌小品を発表。
『三田文学』: 永井荷風が編集主幹となって創刊された雑誌。泉鏡花、森鴎外、谷崎潤一郎、与謝野鉄幹・晶子などが寄稿。また、久保田万太郎、佐藤春夫、石坂洋次郎、戦後には松本清張や遠藤周作、江藤淳など輩出。
1913大正2年、慶應義塾中退。
油絵を描いて第2回二科展入選。
1916大正5年、八ヶ月にわたる神奈川県辺村の生活に着想した幻想的メルヘン「西班牙(スペイン)犬の家」を発表。
1919大正8年、『田園の憂鬱』で新進作家として認められる。
1920大正9~10年、「M・K女と別れる」
かねて離別の暗黙の許に谷崎潤一郎夫人の千代子と恋愛関係にあったのが、谷崎が異約したため「交わりを絶つ」ことなどあり、人生に沈潜して悲哀を歌う詩人になった。
1921大正10年、第1詩集『純情詩集』
絶交状態の谷崎潤一郎と和解。
1922大正11年、『我が一九二二年』名作「秋刀魚の歌」が収められている。
“秋刀魚の歌(佐藤春夫)”2010.09.29
https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2010/09/post-f7b8.html
『百花村物語』
<中国詩文への親近> 古典愛好の一分野で、台湾・福建(大正9年)、再度の中国旅行(昭和2年)もあって、古今奇観・聊斎志異による物語。以後、支那短編集、名訳「揚州十日記」、訳詩集『車塵集』などがある。
1923大正12年9月1日、関東大震災。死者・行方不明約15万。
1925大正14年6月~ 15年10月中絶「この三つのもの」
――― 谷崎潤一郎夫人との恋愛を素材として人生の解明に一歩進めた力作。
1926大正15年、『佐藤春夫詩集』「犬吠埼旅情の歌」が収められたこの期の集大成。
――― 震災後に会つた時、佐藤は僕(芥川)にかう云つた。「銀座の快復する自分には二人とも白髪になつてゐるだろうなあ」これは佐藤の僕に対して抱いた、最も多いなる誤解である。いつか裸になつたのを見たら、佐藤は詩人に似合わしからぬ、堂堂たる体格を具えてゐた。到底僕は佐藤と共に天寿を全うする見込はない。醜悪なる老年を迎えるのは当然佐藤春夫にのみ神々から下された宿命である(『梅・馬・鶯 : 芥川龍之介随筆集』)。
1927昭和2年7月24日、芥川龍之介、田端の自宅で服薬自殺。
――― 「他界へのハガキ」佐藤春夫(芥川龍之介著*『三つの宝』序)
芥川君。 君の立派な書物が出来上がる。君はこの本の出るのを楽しみにしてゐたというではないか。君はなぜ、せめては、この本の出るまでまで待つてはゐなかったのだ。さうして又なぜ、ここへ君自身のペンで序文を書かなかったのだ。君が自分で書かないばかりに、僕にこんな気の利かないことを書かれて了ふじゃないか。だが、僕だつて困るのだよ。君の遺族や小穴君などがそれを求めるけれど、君の本を飾れるようなことが僕にかけるのものか・・・・・・ 口惜しかつたら出てきて不足を云ひたまへ(後略)
*『三つの宝』: 芥川の短編集「蜘蛛の糸」・「杜子春」・「三つの宝」など6編。
1929昭和4年、「陳述」「更生記」野心的な手法を示した。
『日本探偵小説全集』 第20篇 (佐藤春夫・芥川竜之介集)1929改造社。
1930昭和5年、谷崎夫妻離婚。夫人であった小林千代子と佐藤の結婚が成立。
夫人譲渡事件として世評かしましかったが、これは倫理も明快で、日本近代の個人の解放・確立の系列にみるべきである。
1931昭和6年、『魔女』などのほか、漢詩の訳詩集などもある。
1938昭和13年、『東天紅』時局の呼応して、民俗の大業を謳う。
『奉公詩集』「ガダルカナルの英霊を歌へる歌」などが収められている。
1945昭和20年、太平洋戦争、敗戦。
1946昭和21年、『佐久の草笛』戦後の荒廃のさ中に清新の風を送った。
<僕は僕のなかに生きてゐる感想が古風に統一された時に詩を歌っている>
<和漢朗詠集と今様と箏歌と藤村詩集とは僕の詩の伝統である>
詩壇とは無関係に古風なスタイルで叙情詩を書きつづけた。叙情精神には近代的知性がこもっていた。
1951昭和26年、佐藤春夫作詞、笠田小学校校歌(人・もの・地域 和歌山県広報室)
大樹の樟よ わが庭よ ちとせの命 貴しと
十五社の森の 下かげは 至誠の児童 集うなり
1952昭和27年、『佐藤春夫全詩集』読売文学賞をうける。
1960昭和35年、文化勲章。
1964昭和39年、死去。享年72。
放送用自叙伝の録音中、東京都文京区の自宅で急逝。
戯曲も書き、また知的洞察力と鋭い分析力をもつ批評家として文芸時評・文学史論に多くの業績を残した。また、当代に類のないスケールの大きい文人風をなした。
参考:『現代日本文学大事典』1965明治書院 / 『日本人名辞典』1993三省堂 / 国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/
| 固定リンク
コメント