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2020年5月23日 (土)

寅さんの江戸川・葛飾柴又の明治・大正(東京)

 なんという世の中になった。新型コロナウィルス感染にびくびく、道を歩いて人に出会うと避けて通るようになってしまった。先が見えないと、こんなにも不安になるのか、ため息しかない。せめて身体を動かして発散したいが、遠出はしにくい。
 そんな折しも、国会で「検察庁法案改正案」審議、政治に疎いおばさんながら不安視していたが<法改正見送り>、また、渦中の人物の心ない行動もあり事の行方はどこに。おろそかにできない問題だが、今はコロナ禍の終息を急ぎたい。
 生徒・学生が一日も早く登校できるよう願うばかり。みんな友だちや先生に会いたいでしょう。通学したくてもできないとなると、勉強嫌いでも学校が恋しいかもしれない。

   ――― 渥美清さんという人は、一種の天才だと思います・・・・・・ 渥美さんがぼく(山田洋次監督)にしてくれた話の中でこんなのがあるんですね。
 彼はクラスのお荷物だから、一番後ろに座らされている。
 授業はさっぱりわからないし、興味もない。面白くもおかしくもない。だからぼんやりと先生を観察したり、一所懸命勉強している生徒の横顔を見たりしながら、退屈な時間が過ぎていく。
 ところが、一所懸命勉強している少年たちも一時間の授業のうちに、一度や二度、一息入れる時間がある・・・・・・ 先生も、ちょっとくたびれて、このへんで一息という感じになると、チョークを置いて言葉をとめる。
 そうすると、生徒たちは一斉になんとなく渥美少年のほうを振り返ってみる。そのとき、渥美少年は、そこでおれの出番だとばかり、ニコニコッと笑うんだそうです。少年のころから、四角い顔をした渥美さんの笑顔はとても面白かったんじゃないでしょうか・・・・・・
 それで、みんなが「ワアーッ」と大声で笑う。そうすると、なぜかみんな元気が出てくるというんです・・・・・(『寅さんの教育論』)。

 「落ちこぼれだった少年寅さん」も、居るだけで笑いがおきた教室が恋しいかもしれない。寅さんを持ち出したのは『東京の川と水路を歩く』の始まりが江戸川、土堤を行く寅さんが思い浮かんだ。あの辺は、下町人情を描いた「寅さん」シリーズの主要舞台である。
 帝釈天へお詣りに行ったとき、*京成金町線・柴又駅改札を出ると、そこは寅さんがひょっこり現れそうな昭和の雰囲気がただよっていた。その昔、明治・大正のころはどうだったのかな。
    京成金町線: 明治時代には帝釈人車軌道という、人が押す小さな屋根つきトロッコみたいな軌道で、京成が買収して路線化したもの。


     柴 又
   江戸川西岸の低地。日蓮宗・柴又帝釈天(題教寺)は江戸時代から下町住民に厚く信仰され、門前町が賑わった。
 なお、題教寺墓地に「浅間山噴火川流溺死者供養碑」がある。
 1783天明3年の浅間山大噴火で吾妻川が堰き止められて決壊、大洪水となって、70ヶ村余がのみこまれ、多数の死体が利根川から江戸川へ流れ、当地に着いた。

  葛飾の夏 卯の花が散る 時鳥が啼く 
  沼の中に 菖蒲の花も咲いてゐる
  沼の中の 菖蒲の花よ 葛飾に 今 
  二月もゐたかった
  家も屋敷もない 己は 去年の夏は東京に
  今年の夏は葛飾に わかれねばならぬ時が来た                 
  この住み慣れた 葛飾の 菖蒲の花よ また逢はう  (野口雨情)

     野口雨情: 民謡・童謡詩人。大正中期の童謡運動の第一線にたつ。『十五夜お月さん』刊行。「船頭小唄」は流行歌となった。


     <東郊 柴又の辺>
  ――― 汽車は小岩の停車場(ステーション)に着いた。江戸川の右岸である。鴻の台(国府台)を右にとって、私は柴又の方へ歩いた・・・・・・ 野には農人の影も見えない。枯れ草は飽くまでも美しい光線を吸収して、そこには真昼の寂寥が溢るるばかりである。行く行く江戸川との距離が迫って、樺色に枯れた堤の上には五反帆の影が見えてきた。折々、緩やかな楫の音も聞こえてくる。
 路はやがて塩煎餅を売る家を先頭として、村落に入った。生け籬に沿うて幾度となく曲がると、又、広い水田が開けて、目の前に、帝釈天の屋根が、柴又一帯の村落を抽(ぬ)いて現れている。
  ・・・・・・ *川甚は静かな江戸川の流れに臨んだ旗亭で、白帆の往来、蒸気船の上下を見るに好い所である。酒や、醤油を積んだ川船が幾艘となく、私の前を下っていった。ゆるく風を孕んだ五反帆が相連れて流れをのぼった。私は舟人の冷たい生活を思いながら、川魚の料理を呼んだ。鯰の蒲焼き、鯉こく、洗いなど・・・・・・  (白柳秀湖

    白柳秀湖: 評論家・歴史家。反戦的文学運動を展開。著書多数。


     江戸川
   関宿分岐点で利根川と分かれて西に流れる江戸川が、“東京の川”となるのは葛飾区東金町から。南へと下る流れは江戸川水閘門のやや上流で千葉県へ向かう江戸川(放水路)と旧江戸川に分かれ、東京湾に注ぐ。
 その歴史は、徳川家康が江戸に入ってから着手した河川改修事業「利根川の東遷」に始まる。

   江戸川のみづはにごりて のぼり来る 舟夫がみのにそそぐ春雨 (難波専太郎) 
 
  大曲まがりてつづく 江戸川の 堤のさくら今さかきなり (矢部道気)
                  

     矢切の渡し
   江戸川に仕切られた千葉県松戸市下矢切と東京都柴又との間を往復する渡し舟。
 江戸初期に徳川幕府が、利根川水系河川の街道筋の重要地点として指定した15カ所の渡し場の一つ。当時、江戸川の両岸に田畑をもつ農民が関所を渡らなくて済むよう、農民特権による農民渡船として始まった。現在、東京で定期的に運航されている唯一の渡し舟。
 千葉県が生んだ歌人・小説家、伊藤左千夫は小説「野菊の墓」で、<矢切の渡し>の庶民性と素朴さを背景に、淡い恋物語を描いている。西蓮寺に文学碑(「東京防衛施設広報」2005東京防衛施設局・広報官編集)。

  帝釈天裏の料亭、川甚のうえの堤防に立つと、矢切の渡しがみえる。


     <おまゐり>
   柴又へは我孫子よりまた汽車にて戻り金町駅に下車(上野より時間三十七分、賃金十五銭)*人車鉄道ありて柴又帝釈天まで行く、参詣者の多きに成田不動、川崎の大師にも劣らざるものにて、境内町中の光景も又似たり寄りたりものなり、帝釈堂のうしろ数町にして利根川辺に出る、ここに川魚料理にて有名なる川甚あり、料理は美味し、座敷も場所には似ず、鰻、鯉の料理は東京の人には珍しく確かに土産話となるべし(落合昌太郎)。    
    人車鉄道: 鉄道馬車の馬が人力に代わっただけのもので、明治22年ごろ、東海道の藤枝・焼津間に開業。のち、小田原・熱海間も開通したが、乗客は推し進める人の苦労を見かねて不評であった。


   参考: 『日本地名事典』1996三省堂 /  『東京の川と水路を歩く』2012実業之日本社 / 『故郷の家』難波専太郎1920新進詩人社 / 『白空木』矢部道気1925常春社 / 『雨情民謡百編』野口雨情1924 新潮社 / 『郊外探勝その日帰り』落合昌太郎1911有文堂 / 『強者弱者』白柳秀湖1914東亜堂 / 『東京歴史散歩・下町』2005山川出版社 / 『近現代史用語辞典』安岡昭男編1992新人物往来社 / 『寅さんの教育論』山田洋次1994岩波ブックレット

 

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