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2020年5月16日 (土)

琵琶湖疎水・北海道鉄道敷設にかけた、田辺朔郎(江戸)

 2020春、世界中が感染の不安にさらされ皆ステイホームだが、人によっては戸外で働かなければならない。近くに20軒ほど新築工事中の区画があり、職人さんが働いている。家が出来上がっていく様は、建て主さんと無縁でも悪くない。
 しかし、公共の大工事など費用も年数もかかり、終わりが見えないと、どれだけ役立つものなのかと白い目でみたりする。そうした大工事、難工事、明治の昔だったらなおさらだろう。
 明治政府も府県も予算がないうえ、新技術と知識も充分ではなかったから、まず人を得ることが重要だった。そして、その人に欠かせないのは、困難にめげず為し遂げる情熱である。工学博士で土木技術者の田辺朔郎(たなべさくお)はその代表といえよう。

     田辺 朔郎

 1861文久1年11月1日、江戸の洋式砲術家の長男に生まれる。
   父は田辺忠篤、西洋砲術を高島秋帆に学んだ。文久2年、42歳で病没。
   叔父・田辺太一(連舟)は、岩倉遣外使節に随行もした明治の外交官。
    “明治最初の女流作家、三宅花圃(田辺竜子)”2014年7月12日

 1877明治10年4月、工部大学校(東京大学)入学。
 1881明治14年、北垣国道(旧鳥取藩士)京都府知事就任。
    ――― 当時は人心が東京に向かい、京都の商工業は振るわなかった。また、京都は井水も用水も不足で、西陣方面では染め物に用いる水も不足、市街地付近の農耕地では潅漑用水が不足していた・・・・・・ 市中の下水も不潔を免れず、また火災が起こると水利がよくないため、大火になりやすい心配もあった。
 北垣知事は着任以来、水利を便にして水の供給を潤沢にし、且つ運輸の便を開く必要を悟った。幸いにも約12kmを隔てる地に天然の一大貯水池ともいうべき琵琶湖がある。
 ・・・・・・ 空前の大工事を実行するに外国人の手を借りず、日本人の力で完成させようと決心、時の工部大学校長・大鳥圭介に相談すると、「今はまだ大学生であるが、この男ならば必ずその大工事をし遂げるに相違ない」と田辺朔郎を推薦した(『近代日本文化恩人と偉業』北垣恭次郎1941明治図書出版)

    同年10月、まだ20歳の大学生、田辺朔郎北垣知事の信頼に感激、万難を排して琵琶湖疏水(琵琶湖-京都間を疎通する運河)を完成させようと決心、京都に出張。
 先ず、疎水工事の準備として、大津三保崎に量水標を設け、水位の観測をはじめる。

 1882明治15年、田辺は京都-大津間を測量。
 1883明治16年5月、工部大学校卒業。
   琵琶湖疎水工事の計画を書き上げ、卒業論文として提出。ちなみに、誤って右手を骨折していたので論文は左手で書き上げ、卒業後、大学病院で右手中指の手術を受けた。
    7月、京都府御用掛として京都に赴任。
    9月、北垣知事は田辺から疎水工事の実測および工事計画書の提出を受けて、疎水工事趣意書を作成、朝野の了解、同意を得ることにつとめた。
 しかし、水力利用の無用を唱え、工事を突飛な計画、不可能とする反対が猛然と起こった。京都府内、滋賀県、大阪府、政府部内にも成功を危ぶむ向きがあった。しかし、北垣知事と田辺は反対者を説得、各方面の諒解をえる。

  ――― 有名なる琵琶湖開通の事業は、いよいよ国庫より35万円を下賜せられ、3月より着手の由。その目的は、第一に高瀬川を浚疏し通い船の便を開くこと、第二に京都市中へ水路を引き設くること、第三に洛東南禅寺村へ大瀑を造り、300馬力の水力をもって製紙器械を運転するにありといえば、驚くべき大事業なり(朝野16.01.16)
  ――― (疎水工事に賛否両論) 賛成者は運輸の便を開き・・・・・・ 不賛成者は運輸には汽車あれば・・・・・・ また、高瀬川を三間広げしとて著しき風致もなし、湖水は元来、腐敗水なれば、これを京都に疎通するは悪疫流行の予防にあらずして、かえって媒介となるべしなど駁するものある由(郵便報知16.08.03)。

 1885明治18年、琵琶湖疏水、通船を目的に着工。工費125万円。
   田辺ら日本人のみの設計・施工による初の*インクラインで輸送力向上をはかり、わが国最初の水力発電など、京都の近代化に貢献する。
    インクライン: 斜面のレールに乗せて船を引き上げる装置。積載品は主に、米穀・木材・石材など。
  
   <高瀬舟が疏水を遡上する仕掛け
  ――― 明治の一大工事と世間に噂せる工事は・・・・・・ 疏水の落口より隧道中を高瀬舟の上下する仕掛けをきくに、水門に鉄槽ありて常に落ち口の水量を測り。またその中心に鉄棒ありてこれに堅牢なる轆轤(ろくろ)を装置し、その轆轤に連環したる鉄鎖ありて、高瀬舟は数珠のごとくこの鉄鎖に付属し、右辺の荷船十艘下るときはおの流下の力によりて、左側に結びつけたる十艘の船は同時に流れに遡る仕掛けなる由(東京日日20.10.055日)。
 1886明治19年3月、琵琶湖疎水工事に着手。
   ――― 田辺技師は現場に出張して、労働者と一緒になって工事を督励しました。が、何と言っても、山の同腹をくり抜いて、大きなトンネルを作り、そこへ琵琶湖の水を落とし、しかもその上を船が通うようにしようというのですから、考えただけでもたいへんです。工事は遅々として進みません。「地質が弱くてこれ以上進のは危険となりました。」
 トンネルを作るのに、土砂崩壊ほど恐ろしいものはありません。多くの工夫を生き埋めにしてしまうのです。これは、京都数十万の人々のためにやる仕事だ「よし、死なば諸共だ。俺も皆と一緒に働こう」・・・・・・ 闇黒の中で働いている工夫たちもこれには感動、新しい勇気を奮い起こしました(『偉人物語』大山広光1930文教書院)。

 1890明治23年4月1日、大津と京都と二ヶ所で竣工式を挙行。
   多大の犠牲とに依ってさしも困難であった疎水工事は4年2ヶ月かかって完成。
   ――― 琵琶湖疏水竣工式の景況を見物線とて洛中洛外の老若男女、陸続として疏水線路に向かって押し出し・・・・・・ 運河の両側はさながら人をもって丘を築きたるごとく・・・・・・ さて、両陛下、蹴上事務所へ御着の報あるや、南禅寺境内松林において花火を打ち上げ、その盛況なかなかに(中外電報23.04.10)

   5月2日、イギリスの新聞メールが田辺の事業を詳報、欧米の学会を驚かせた。
    11月、東京帝国大学工科の教授。京都府から土木事務監督の嘱託を受ける。

 1891明治24年8月、工学博士の学位を受ける。
    常に東京・京都間を往来、潅漑用水をあてがう支線、疏水の落ち口から宇治川に通じる運河、幹線水路の工事、新に計画された水電事業などの工事を監督。
 いずれも、明治27年9月完成。
    水電事業: わが国最初の水力発電事業。2千馬力電力を起こした。当時、世界最大の水力発電所で欧米諸国を驚かせた。

 1896明治29年5月、北海道鉄道敷設法公布。時の北海道庁長官は北垣国道
   1000マイル(1600km)幹線鉄道、旭川―釧路・厚岸経由―網走、釧路―根室、旭川―宗谷、雨竜―増毛、名寄―網走、小樽―函館の各幹線は、北方警護の屯田兵を任地へ派遣したり、拓殖計画を進めたりするうえで、その敷設は急を要していた。
 北垣長官は鉄道敦設の調査を、帝国大学工科大学教授・田辺朔郎に依頼。

    7月、北海道へ赴任。敷設部技師となり全道を調査して第1期計画案を作成。
    当時、北海道の人口は約70万人、現在北海道第2の都市である旭川は、明治25年にはじめてひとが住みはじめたばかりの部びた土地。田辺はヒグマやオオカミが跛肩し、蚊やアブや蜂がうようよしている原生林や湿地など未開の北の大地を自分の足で歩き、ときには馬の背に揺られて、地形、地質、経済効果、資材の入手方法など細部にわたって踏査した。

 1897明治30年1月、北海道鉄道敷設部長。
   衆議院において北海道鉄道の説明。以来、各種の難関を突破してもっとも困難視された北海道官設鉄道の創業を達成。
 1898明治31年11月、北海道庁鉄道部長。
   ――― 鉄道敷設部長として1000マイル幹線鉄道調査と、空知太(いまの滝川)から旭川までの上川線56キロメートルの建設工事に従事していた。着工から足かけ3年、神威古淳では蛇紋岩に穿つトンネルに苦労を重ねた挙旬、上川線はようやく8月21日に開通式を行った(『河畔林』田村喜子2004寒地土木研究所)

   ――― いまの函館本線ルートの調査、年が明けて間もない厳冬の季節。小樽から約20kmはなれた蘭島へ向かう途中、踏査の一行は地吹雪にまきこまれ、あわや遭難の憂き目にも。積雪寒冷に加え、まだ蛮地と呼んでもいい状態にあった北海道で、1600km幹線鉄道の実地踏査を行うのは、文字通り命がけの仕事。
 しかし、田辺には北海道の将来にかける信念と情熱がありました。・・・・・・この函館本線ルート踏査中に詠んだ短歌は秀逸で。
   天翔ける姿に似たり駒ケ岳  雲のたてがみ風にみだれて
 当時は日清戦争後の軍需拡大に多額の費用をあてる一方、全国的に興った公共事業のために、著しい財政難に陥っていました。
 大蔵大臣・井上馨はこのまま放置すれば国家経済の危機を招くため、公共事業の全面停止を断行しようと31年度分の予算打ち切りを各方面に通達。田辺はただちに上京して井上大臣に談半。
 なにがなんでも事業中止しようとする井上との対談は3時間に及び、最後に丼上大臣は机をどんと叩いて
「えいくそ、100万円くれてやらあ」100万円は北海道鉄道建設の31年度分の予算。
 こうして北海道鉄道に限り、事業中止の厄を免れた。無私無欲で正論を貫いた田辺の誠意が通じたのでした。
 同じ時期、鉄道の橋梁部門を担当する一方、海路と陸路の結節点となる港湾の整備にあたっていた道庁技師兼札幌農学校教授・廣井勇とともに、田辺朔郎は北海道の明日をつくった男の一人といえるでしよう(「田辺朔郎著『北海道鉄道由来』に寄せて」田村喜子2004北海道開発土木研究所月報608)。

 1900明治33年、京都帝国大学理工科大学教授。のち、工科大学長、名誉教授
    4月、シベリア鉄道の調査(軍事的経済的能力を計るため)。
 1907明治40年9月8日、北海道鉄道全通式参列。
 1910明治43年、宮内省内匠寮御用掛となり、御所の水道布設工事を施工。
 1911明治44年、関門海底トンネルの踏査に従事。
 1913大正2年4月、水底隧道(海底トンネル?)など調査のため欧州へ出張。9月、アメリカ・カナダを回って帰国。
 1919大正8年12月5日、第一次疏水開通30周年記念式。

 1943昭和18年、――― 資性温厚、人格高潔にして情誼に篤く、親しくその門に学び、その謦咳に接した者は何れも慈父の恩を禁ずることができない。一面極めて多趣味にして、父祖の流れを引いて詩文和歌に弔辞、しばしば随筆を物せられ、書および画を能くし、加えて箏曲三弦にも堪能である。今や83歳の高齢にも拘わらず、矍鑠として京都市に自適して居る(『沼津兵学校附属小学校』大野虎雄 1943)。
 1944昭和19年9月5日、死去。

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