書籍・ピアノ・『玉淵叢話』三木佐助(京都・大阪)
巣ごもり生活を余儀なくされている。先が見えれば辛抱しやすく、少しは明るく過ごせるのに。学校もお休みで子どもは大変、親もキツイ。親子とも辛いよね。
ステイホームの仕方は人それぞれ。大学生の男孫はピアノを弾いて気を紛らわせているようだ。何を弾いてるのかなと思いつつ『ピアノの近代史』を見ていたら、前にとりあげた三木佐助がでてきた。その時、ピアノに縁があるのを見逃していた。
2016.2.27“明治前期の英和辞書、三木佐助、イーストレイク”
そこで改めて『玉淵叢話』を読んだら、明治・新日本時代を闊歩する三木佐助がいた。また、佐助が関西人のせいか、明治になっても東京を江戸と表記するなど、一寸した感覚の違いもおもしろい。国会図書館デジタルコレクションで、皆さまもどうぞ。
三木 佐助
1852嘉永5年2月5日、山城国相楽郡和束郷白栖村(京都)で生まれる。
幼名・和吉。養子にいって三木佐助となるが、佐助で統一。
1859安政6年、7歳。大阪心斎橋米屋町の書林・河佐家に奉公。
河佐家は貸本屋が主だったが、次第に出版するようになる。
1863文久3年11月19日、大阪で大火があり、焼け出される。
書籍を扱う店なのに字が読めなかったので、木版活字の文選に字を習う。
1868慶應4/明治元年、鳥羽伏見の戦(戊辰戦争の発端)。
店の主人は、佐助の故郷・山城に疎開。佐助は大阪の店で留守番するも商売は不調。
1869明治2年、17歳。京都へ出張、同業者と取引する。
旅の乗り物(三十石船・川蒸気)、大槻文彦(国語学者)など著作者との交際など『玉淵叢話』にある。
1870明治3年、紀州和歌山へ商用。「お払い物」書物などの買い付け。
明治維新後、武家が困窮し、武士の命といわれた大小、漢籍・法帖など書籍、道具類などを売り払ったのである。そうした諸藩、公家の払い物を買い付けた。
1871明治4年、清国人相手に取引をはじめ、利益をえて川内家本店の負債を減らす。
清国と、書籍類の取引をする。そのさい麦梅生という清国人と協力。
漢籍(日本版)・唐本(中国版)・法帖類を取り扱い、全国各地より買い集め清国へ逆輸出するようになった。
法帖: 古人の筆跡を石刷りにした折り本。手本や観賞用として作る。
1873明治6年、名古屋で地球儀を売る。
1874明治7年、金沢で地球儀を学校用品として売り込む。
1877明治10年、西南戦争。見込まれて三木家の養子になり、4代目三木佐助となる。
「同盟組合出版事業」を計画、科学書、「小学生徒必携」など教育書を刊行。
『新撰詩語類苑』 『明治文語砕金』 『日本小史』(大槻文彦著) 『日本地理図』『改正物理階梯』 『博物教授解』などなどさまざまな分野の本を多数出版。
1879明治12年7月、貿易商廃業届。
1880明治13年、結婚。東京・鹿児島などへ商用で旅行。
1883明治16年、本家・柳原家の改革に取り組み、図書販売業を拡張する。
?年、 商用の旅。大阪から船で横浜へ、横浜から汽車・陸蒸気で江戸・須原屋などで新本・唐物、佩文・斎書・画譜など仕入れる。
『皇国万民必携』『万民用文普通作文必携』(例文・熟字・俗語など)好評でよく売れた。
1885明治18年ごろ、官制の改革や条約改正論などもあり英学が盛んになる。
『英和語林集成』、五代友厚『和訳英字林』(薩摩辞書)などの英語辞書を払い下げてもらい売る。当時、横浜大阪間において三菱・共同汽船が値下げ競争していた。
1886明治19年、『九十七時二十分間月世界旅行』出版。
SFの古典として知られるジュール・ヴェルヌ原作の長編小説。力強い独特の文体に銅版画の挿絵。物語では巨大な砲弾に乗って月を周回した後、地球に帰還する。
1888明治21年9月、白井練一が佐助のもとに浜松の山葉寅楠を連れてくる。
三木・白井・山葉の3人で、山葉が製造した風琴(オルガン)を売り出す。
白井練一: 教科書販売の大手・共益社。東の共益社に対し、西は三木佐助。
1889明治22年、東京・紅葉館、東京書籍業者の新年会に参加。演説する。
楽器商を兼ね、また、業務拡張・農業部として田畑山林の買い入れに従事。
8月、名古屋の鈴木政吉から関西地方でのバイオリンの一手販売を引き受ける。
1890明治23年、白井・山葉・三木3人で山葉の風琴製造工場を合資会社にする。
1891明治24年、合資会社解散。
8月、大阪師範学校で音楽講習会を開くと希望者が多数集まった。
1893明治26年、東京で図書会社の総会に出席。その後、逗子へ避暑にいく。
同行は、白井錬一・竹田敬三・山葉寅楠らと数日滞在。
逗子では、白井が持参した自転車を乗りまわし、以来、自転車愛好家となる。
好輪家(自転車愛好家)20人で遠乗りを楽しむ。那珂通世も仲間の一人。
“東洋史学者・那珂通世と分数計算器(岩手県)”2014.02.15
1897明治30年9月、山葉寅楠らと「日本楽器製造会社」を創設。山葉が社長、三木は鑑査役。翌年1月、開業。
山葉寅楠: 洋楽器製造技術者。紀州藩士の子。長崎で時計修繕方を学ぶ。医療機械技術士となるが、日本初の本格的オルガン製造に成功。日本楽器製造株式会社。
1898明治31年、「万国小史」改題・『世界小史 : 中等教育』大原貞馬著、出版。
1899明治32年、新築移転。書籍部(4棟)、楽器部(3棟)。
――― 楽器の売れ行きは数を増して、内地のみならず、この後とも進んで改良を怠らねば余程面白い事業になるであろうと思われます。楽あり、人あり即ち和し・・・・・・ 音楽勃興の兆あるは、やがて国運振張を意味するものでござりましょう(三木佐助)。
『日本俗曲集』在来の端唄・長唄・琴唄などの歌曲を西洋楽譜に現し、それにバイオリン・オルガン・尺八などの使用法とかんたんな音楽理論を付したもので、人に習わず弾けるというので全国に拡がった。その他出版物『バイオリン指南』『帝国軍歌』など。
『新撰英語学教科書』(イーストレーキ編)出版。
1900明治33年、『地理教育鉄道唱歌』は一世を風靡。
毎日新聞2020.7.9夕刊 Topics「鉄道唱歌」誕生120年
--- 日本の大動脈歌い継ぎ マーケティングに成功
「汽笛一声新橋を」で始まる「鉄道唱歌」・・・・・ 一度聞いたら忘れられない軽やかなメロディーと、沿線の風土・歴史を盛り込んだ歌詞は明治、大正、昭和、平成の四つの時代を超え令和に伝わる。--中略--
当初は子どもや女性を狙って出版されながらも、社会人の男性たちにも広く歌われた。原口隆行(鉄道作家)によると、作家の内田百閒や哲学者の安部能成といった著名な知識人も、宴席で競って1番から66番まで披露したという--後略---(広瀬登)。
1902明治35年、『玉淵叢話』出版。大阪市東区北久宝寺町4丁目106番地
1903明治36年、 ピアノの販売を開始。
1907明治40年、ヨーロッパ製輸入ピアノの取扱を開始する。
1909明治42年、国定教科書の翻刻発行を許可される。『女子音楽教科書』出版。
1910明治43年代、三木楽器の年間ピアノの販売台数は100台を超える。
1920大正9年代から、ピアノの需要が高まる。
三木楽器に対するピアノの需要は大正時代後半に高まっていたといえる。
1921大正10年、 スタインウェイ社の日本総代理店となる。
1924大正13年、『コールユーブンゲン』出版。
1926大正15年、死去。
参考: 『ピアノの近代史 技術革新・世界市場・日本の発展』井上さつき2020中央公論社 / 『玉淵叢話』三木佐助 / 国会図書館デジタルコレクション / 『日本人名辞典』1993三省堂
| 固定リンク
コメント